一、浄霊の合理性

 一番の事は智慧正覚です。いろんな事が分る事です。分ると言っても間違った分り方ではいけません。どうも分らないというのもあるし、その時はなるほどと思っても、家に帰れば忘れるというのもあります。いろんな事がフッと分るのは智慧正覚が向上しているのです。病状を見て、この人はこの病気だという事を当てれるのは、余程智慧正覚が上ってなければならないです。だから以前は五つ分ったが、この頃は六つ分る、七つ分る、というのなら智慧正覚が向上しているのです。(七月一日)

 何でも急所です。ところがこの急所を外れている事が多いのです。これは病気ばかりではないので、日常の事や話や、いろんな事、又宣伝の工合でも、その急所を見付けるのがなかなか難しいのです。しかし、その人の智慧正覚が進むと急所の発見が早くなります。
 どんな事でもその急所をやる事です。それから急所が見付からない時に、あせってやってはいけません。それはまだ時期が来ないとか、いろいろな事情があるのです。ですから不断心掛けていれば、時期が来さえすれば急所は見付かるものです。ですから病気でも、どうも熱が冷めないという時に、ちょっと急所に来ると冷める事があります。これはあなた方でも経験する事があるでしょうが、急所を発見するという事が、人間人生の最大の條件です。(七月五日)

 人間は急所の発見が出来るような頭を作る事です。これはなかなか難しいですが、せめて急所に近い所が直ぐ分るようになれば結構です。(七月五日)

 理窟に合わない事はいけないと言ったが、いくら一生懸命にやっても、その人を浄霊すべき條件が理窟に合わないと、いくら一生懸命にやっても治らないのです。これはこの前話したから大体分っているでしょうが、その理窟に合わない事の一つの條件というのは、神様のことを知った人と全然知らない人とは大変違うのです。知らない人は大変無礼な事をしても、これは知らないから許されます。ところが信仰にはいって相当たって、知っているはずのところの人が理窟に合わないとお蔭がないわけです。そういう事もよく考えるべき事です。やってみてどうしても思うようにゆかないという事は、自分の浄霊の霊力が弱いのだろうとかいろんな事を思うが、そういう事はごく少ないので、本当は急所をはずれている事と條件が理窟に合わない事が一番多いのだから、そういう事に気がつくようにならなければならないです。それはその人の智慧正覚です。だから先ず智慧正覚を磨くという事が一番肝腎です。智慧正覚が磨けると急所の発見が早いのです。これは何事にも非常に関係があります。だから信仰に関係のない事で、大きく言えば、政治、経済の事でもそうです。偉い人がいろいろやってますが、急所を外れている事が非常に多いのです。(七月六日)