此事柄は、他宗を非難する事になるのでかきたくはないが、何かの参考になると思うからかくのである。之は大本教時代の事であったが、私が小間物問屋をしてゐる時に使った蒔絵師で、熊井某という男があった。之は熱心な天理教信徒であって、支部長となる事になった処が、其当時百二十人信者が出来なければ、許可を得られないというので、彼は半分位の信者はあるが、後の半分六十人を私に作ってもらいたいといふのである。処が私は天理教ではないので断はった処、信者でなくもいいといって懇請されたので引受けて、兎も角も六十人作ってやった。いよいよ支部の発会式もすんでから間もなく彼は病気に罹った。勿論天理教の先生に、お取次をしてもらったが仲々治らないので、私にやってもらいたいと頼むので私は行って治療してやった処、非常によくなるので、彼は続けて欲しいと懇望した。然し私は考えた。もし治ったとしたら、変な事になる。何れは知れるに違いないから、天理教から怨まれるに決ってゐる。而も彼の家は遠方で、一回治療に行くのに三四時間かかるので、暇をかいて骨折って怨まれて、大本教の宣伝には全然ならないという訳で、やめて了った。処がそれから二三ケ月経て、彼は死んだのである。
右とよく似た話があった。大本教関東別院が横浜にあった。そこへ出口先生は始終滞在されてゐた。その随行の大幹部である某女史が病気で、漸次悪化の状態である。出口先生は治すべく凡ゆる方法をつくしたがよくならない。偶々私が見兼ねて治療してやった処が、今迄歩けなかった足が、一回で歩けるようになったので彼女は驚喜し是非続けて欲しいといはれたが、此時も私は考えた。もし私が全治さしたら変な事になる。数十万の信者から生神様とされてゐる出口先生が治らない病気を、一信者たる私が治したら大問題となる。折角骨折って治してやって異端者として多勢から怨まれ憎まれては、馬鹿々々しいと思ったからやめてしまったが、それから数ケ月後彼女は死んだのである。
(自観叢書九 昭和二十四年十二月三十日)