御講話

どういふ形で祖先の罪は子孫へくるかといふと、多く脊髄へくる。御自分の犯した罪は外へくる。頭と脊髄へくる、之は何か、祖先から子孫へ流れる形は経である。祖先の霊線は頭へ来てゐる、目の上へくる。

よく頭が重いといふが、之は祖先が霊界で苦しんでる証拠で、頭へ来てオッかぶさってる訳で、頭へ重荷を負ってる訳である。首筋から脊髄へ来、よく脊髄カリヱスになる。これは罪が直接流れて来て膿になってくる。

肺など脊髄から膿が出て肺に入るのが非常に多い。そういふ訳であるからして、祖先の罪穢といふ事によって病気発生し、それにより早く死ぬ。之が根本原則である。 霊統といふのは、霊線といひ霊に線があり之は沢山あって、今迄霊的事実にぶつかって霊統といふものは争へない事を沢山経験してゐますが、よく霊が乗憑ったり、死霊が祟る事があるが、全然縁もゆかりもない所へは出来ない。善いにつけ悪いにつけ、必ず霊統のものに祟ったりなどする。

どんな方でも、祖先の霊線は何百本、何千本霊の巣の如く引かれてゐる、綜合されてる。これは切っても切れない、どうしても繋がってゆく。草木とすれば、種が落ち実がなり、又、種が出来、実がなると--そうなって、どこまでもその種の霊統が繋がってゐる。

米なら米として、どこまでも米は米で、多少の変化はあっても、麦はどこまでも麦である。粟はどこまでも粟である。どうしてもそれだけの特色をもって続く。之が何種何億にもなる。

自分自身は霊線により繋がってる。全然関係なく繋がってゐるものでない。

祖先がまるっきり罪なく往生する事もない、滅多にない。何でそれは証拠立てるかといふと、寿命でないのに死ぬ事がある。何故死ぬかといふと、罪の重荷に堪え切れずに死ぬ。病気はすべて罪の重荷に堪え切れず死ぬのである。