御講話 (昭和十年八月十一日)

只今の東さんの話と清水さんの話との解決を付けなければならない事になったのでありますが、今東さんが出られやうとしたのを止めたんですが、多分之から喋舌る事をお聞きになったならば、出られる必要はないだらうと思ふ為なんであります。東さんが御自分の技術の優秀であると、それで霊写真が撮れたんだと言はれた事は、確かに皆さんもお聞きになった。そして又偶然に写ったといふ事も言はれた。

すると偶然に技術が優秀の為偶然に映ったといふ事になる。之が一寸ピタッと来なかったのでありまして、勿論技術は優秀でなくては、斯の霊写真はとれぬと思ひますが、私は写真の技術などはよく知りませんから、それだけより言へないですが、然し斯ういふ現象は偶然であるといふ事を言はれた。

偶然といふ事は予期しない事で、実は私も予期しなかった。たゞ何か不思議なものが映るに違ひないといふ事は思はれたが、どういふ風に映るかは、夢にも思はれなかったんであります。無論之は、東さんも夢にも思はれなかったと思ふ。然るに三枚とも映ったのです。

もう一ぱい突込めば、技術の優秀なる為と言へば、幾分拵え物なる事を聯想される。拵え物とすれば撮す前にそういふ物が出る。映るかも知れないといふ事があれば技術だといはれますが、技術の優秀といふ事は、写真によく写るとか、薬の使い方、ピントの合せ方が優秀だ位にしか、吾々としては想像がつかない。

もし優秀な技術の為に映ったとすれば、今後そういふものを出すといって写れば、確かに東さんの技術に違ひなく、私のみでなく、外の人をしてもそうすれば確か優秀といへる。それからなら東さんは立派に言ひ切っていいと思ふ。

でありますから、どうしても、東さんの今晩言はれた事は裏書するとすれば、今後前に予告して、こういふ写真を出すからと言ってそれが出れば、或は世界一の技術者といってもよい。又そうなる。それより他に私は公平に批判すればいふ点はないと思ふ。之は清水、東両氏の言はるる事の解決点であります。

私としては、霊写真は「光明世界」へも出してお話しましたから、今更お話する処はないと思ふも、一言改めてお話しますが、実際の処、観音力だけで、その他には何物もないので、観音様が東さんを使ったんであります。ですから観音様の御都合により、その時の仕事の上において誰を使ふか判らぬ。

今後と雖も観音様は必要があれば誰でも使ふ。もし使はれた人が、俺がこうであるから使はれたとか、俺がどうだからと思ふと間違がある。観音様から斯ういふお見出しに与るといふ事は、一生涯の光栄で、それに対しては唯感謝より外何もない。感謝して有難いと思へば後又使はれる。少しでも自分がやったと思ったら観音様はもうお使ひにならぬ。

此点は大変重大な事で、観音会がだんだん発展する上に於いても、観音様は非常に和らかくて厳粛で、沢山な人を呼び寄せては、一人も残らずお試しになり、すぐりにすぐり此人はといふ人だけ残し、そういふ人達で固めて建設されるので、実にその点は大磐石で、たゞパッと拡げない。世間ではよく形だけみせるやうにするが、こういふ行り方は非常に観音様は嫌はれる。

場当りのいい或一時的の仕事などはなさらない。要するに真実で飾り気のない事、人間のやうに衒ひも何もない。本当のお試しとは、自己といふものを全然みない。本当に世界人類を救はなければならぬといふ止むにやまれぬ状、また此の世の中の状態をみて、実に哀れだ、可哀相だ、見てはをれぬ、然し人間の力ではどうする事も出来ぬ、然し観音様が観音力を揮はれるにつき、その一部にも加へてもらって、そして力限りやらして貰ふといふそれだけで、そこに名誉心などがあると、反対の結果になる。

こういふ様に、一寸考えが違ふと、大きい違ひが出来る事になる。どこまでも自分の存在に無関心で、世の中や観音様の為と思ふと、その人の存在は大きい存在となる。之は生長の家の物質は心の影といふのと似てゐる。自分を見せやうとすると空虚になる。世の人の為と思って自分を無視すると、無視した自分が立派に存在する。

ここの道理のはっきり判った人は、本当の働きが出来る。神の道がある。自分の都合よくなりたい、よくしたいといふ念が、少しでもあるとすれば、物が思ふ様に行かぬ。自分を空虚にする、自分を無視すればする程、自分の実在は確かになる。

此点だけが肝腎な悟りで、此前お話したが、お釈迦様の時代に目連尊者といふ人がゐて、母が地獄で苦しんでゐるのが見えるので、どうか助けやうと思っても助からぬ。他の人はいくらでも助かる。で、お釈迦様に、お母さんを出さうと思ふが、どうしたら地獄から出せるかと聞くと、お前のお母さんはお前が忘れればいいといはれた。そこで考へた結果、はっと思った。

俺は天下万民を救ふ使命によって働いてゐるのに、自分の近親の者親の事ばかり思った為救へなかった。大変な間違ひをした。第一に天下万民を救はなければならぬと、それからは母の事も忘れ、一切衆生を救ひの為活動して、一年経って地獄を覗いてみると、もう地獄には母は居なかったといふのであります。

自分を良くしたいと自分だけよくしやうとすると、先づそうなさなければならぬ。人をよくしやう、人を助けやうとする時に自分はよくなる。

信仰の妙諦はここだけなんであります。

今日号外などで出たんですが、又々大阪神戸などに水害があった。先刻の号外によると、京都では十人位死んだといふ事で、相当大きな洪水と思はれる。先刻二、三人の人にも話しましたが、どういふ訳で洪水になるか、其原因の話をしましたが、すべて天災地変は人間が造るので、陽気がわるいとか、不順だとかいふのも、みな人間がその原因をつくる。

去年は非常に不作だったんですが、或人に私は言った事がありましたが、私は一昨年これを知ってゐた。一昨年は豊作で米が大変安くなったんで、豊年飢饉といふ事を言ってゐた。あまり米が安くなったんで、百姓は食へなくなった。それ故に半産運動など起って作るのを加減しやうとした。それで、今度は不作だなと思ったんです。

何故ならば、神は豊作にして下すったので、豊作ならば人民は非常に有難い事で、それを昔は有難がったものを、今は怨むやうになった。それで神様としては、こんなに豊作にしてやっても、怨むなら不作にしてやらうといふ事になる。それは極った事で、これが去年不作になった原因と思ふ。そういふ人間の間違った言葉、人間の間違った心で、天災地変を造るんであります。

天災地変のみでなく、一切の人事も人がつくる。俺はどうして信用されないのかといふ人があるが、それはされないのでなくて、されるやうにしないからで、信用されない人は、信用されない様な事をしてゐるんであります。人からよく思はれないのも、よく思はれぬやうな事をしてるので、たゞ自分で気がつかぬだけのもので、天地の法則といふものは、そこは厳として犯されぬやうに出来てゐる。

今年の八月は十日程前から涼しいといふより寒い位で、こんな事は実に珍らしい。毎年今頃一番暑い時で、寒いといふ事は人間の心が冷酷だからで、すべて陽気は人間の想念、天気は人間の言葉によって造られる事を、私は知らされてゐるんであります。

陽気の不順なのは人間の心が不順で、変動が激しければ人間の心の変動が激しい。それがそっくりそのまゝ天気に出る。人の悪口を言ったり、悪い事を言ったりすると霊界が曇る。或程度曇ると掃除されなければならぬ一つの法則が出来てゐる。

従ってそれは風によって吹き払ひ、或は大雨によって水で流し、火によって浄化したりされる。もしそれが浄化されなかったら、或程度迄人間は弱る。随って人類は栄えない。衰亡する。そうならない様に掃除される訳であります。それですから、水も火も風雨も有難いわけであります。

去年の大阪方面の七十米の颱風があったのも、あの位ひどい風がなくては曇がとれない。今度の水もそうで、水は物質、火は霊ですから、物質の出すべきものも出さず貯めてゐて金儲けしてる。自分の懐だけ肥して世の為人の為には使はないで貯めるから、水が溜る事になる。その為に水がたまって苦しむ。揚句の果てはその金を出さなくてはならぬ事になる。大変な損害だといふ事であります。

今迄間違った金を貯めてゐたのを吐き出して、水が出て失って、生命は助かったんで、もし水が無かったら生命は助からなかった。それで人間は金を溜めるのもいゝが、程度を越えると罪穢となって、その苦しみによって出さなければならない事になる。昔からあっちの人は金を貯める事が好きですから水が出る。

霊界の中で曇りのひどい所と、そうひどくない所とあって、酷い所は余計に水が出る。人間でも霊体の非常に曇ってる者は、曇った霊界へ行く様になる。曇った人は曇った所へどうしても行く事になる。霊体の綺麗な人は綺麗な霊界へ行く。そして綺麗な霊界の所へは水が行かない。それで、観音会は霊界が綺麗で光ってゐるので、どうしても綺麗な人が来る。曇った人は来られない。どうしても曇った所へ行く。

そういふ風に世の中は出来てゐるからそうなるので、その浄化法として雷などがある。あゝいふ強い電気でなくては霊界が清まらぬから、稲光りがピカピカするのも曇りに相応してゆく。電気も曇った所に相応して落ちる。曇りの程度を超えた人は雷で死ぬ事になる。丁度震災の時など、被服廠などは曇ってるんで丁度曇った人があそこへ行きたくなる。曇ってない人は行かぬ。

間違えて被服廠へ入った人でも、いよいよの最後の時は旋(ツム)じ風が起って、それに捲き込まれて隣りの安田の池の中などへ投げられる。それは相応しないから弾け出されるんであります。又、引越しの家を見付けるにしても、方角も家相もない。曇りのない人は家相のわるいとこへ越せない。越さうとすれば故障が出て来るといふ工合であります。

人間の曇等により、人間の凡ゆる事件などは根本はそれによって起る。非常に曇った時には戦争などがある。その点がはっきり判れば、もう自分は綺麗になるより仕様がない。

始終わるい事を喋舌ったり、嫌な事を喋舌ると、言葉が一種の曇りになる。以前、見た人の話によると悪口言ったりなどする時は、煤(スス)みたいの鼠色の雲となって出る。神様の話したり、神様を讃美する様な事を言ってると白い光になって出る。ですから、多くの人が神様を讃えるやうな言葉を沢山いへば、曇りがとれて光の方が多くなる訳であります。そして天災地変がなくなる。之が判ったら恐ろしい位であります。

人に怨みを受けると怨みの想念が来て、それが曇りとなってその人を取巻く、一人位ならいいが、百人千人となってその人を取巻くと、その人は病気になる。曇りが多いと悪霊が寄って来るから、どうしても病気災難など受ける。反対に人を助けると有難いと思ふ想念が光となって行く。

此間救世主の身体からは光が出るといふ事を言ひましたが、此理を考へれば判る。救世主は何万何千万の人を助けると、有難いといふ想念が無数の光となってよってくると、光で取巻くから肉眼でも見えるやうになる。無論内部からも出るんで、内外両方の光が同時になる。

それで、観音様を書くのに二重に輪を書く事があるが、外の光と内の光と両方になるんであります。そういふ訳ですから、人間は曇りに取巻かれたら巧くゆかない。悪魔は曇りのある所へ寄るから、わるい事ばかりで善い事はない。それ故人間は怨みを受ける事が一番悪い。わるい事が絶えぬ。

勝負の場合人を負かしたり、打っつけたりするのはよくない。負かす時でも一分の逃げ道を造ってやるのが本当の英雄で、戦人で偉いのは敵を全滅させぬ。全滅さしてはいかぬ。一方の血路を開いて逃げさせるのでなければならぬとは、何かの軍学家の言った言葉であります。

そういふ訳で、人から怨みを受けず、感謝を受けなければ、どうしても霊が取巻くから、すべて気持よく順調に行く訳はないのであります。

「観音運動」(御発表)

要するに寿命を延す事、之が凡ゆる問題の解決の根本になるんであります。人間が四十、五十の寿を六十位にする。一番働き盛りの此時代に、生命を落すんですから大変に異ふ。そうすると、一人の為に多くの手を患はす事は、国家の経済上からみて大変な損失で、此人達の病気を治し、寿命を延す事は大変重大なる事で、どれほど国家の為になるか分らぬ。

之ほど偉大な運動はないと思ひます。世間にいろいろそういふ運動はあっても出来ない。又、大きな事をいっても実現の力はなく、言葉の遊戯の様なものが多い。ですから、此点は宣伝する事は非常に意義ある事と思ひます。

観音運動は如何なるものかといふと、病気を無くするものであるといふと、現当利益かといふ。よく仏教で現当利益を軽蔑する。それは現当利益を与へたくても出来ないから、そういふ事をいふので、先づ信仰で現当利益のないものは、馬鹿々々しくて信仰する事は出来ない。

何よりはっきりしてるのは、此十何年間、日本に出来た神道宗派は、十年間に出来た派の統計をみると、八千いくら出来、天理教は五千いくら出来てゐる。之は天理教が病気治しを宣伝したからであります。之に対抗して、浄土宗、禅宗、一向宗といふものが、病気治しを看板にしやうとしても、治す力がないから、苦しまぎれに現当利益などいふのは低級信仰だ、上等の信仰はお金や病気にもっと超越して、心の安心を得なければならぬものだと、友松円諦などがやり出した。

之は新興宗教に対抗の言葉で、実は現当利益をやりたくても力がないので、もはや論議の遊戯になって、反ってそういふものをみると、物の哀れを催す位です。現当利益で行くのが本当であります。天理教もそろそろ現当利益がなくなったんで、之から論理になるか何になるか判らぬ。

観音会が荐りに現当利益を出すのは、之ほど宣伝力のあるものはない。観音会は年々段々現当利益が強く大きくなって行くんであります。そういふ風ですから、大いに現当利益を看板にして、宣伝して結構と思ふのであります。

稲荷さんの事をよく聞かれますが、之は知ってゐていい事ですからお話します。 稲荷といふものは、最初は豊受明神といって五穀の神が、稲を日本中へ配られた。此時狐を使って、狐にそれを咥(クワ)えさせて日本中を配った。それで字によってみると、稲を荷ふといふ字です。又或説によると、飯成りといって飯をならせるといふ説もあります。

又稲荷の画をみると、狐が稲を咥えて宙を飛んでる、その上に女神が乗ってゐる。之が豊受明神で、そういふ具合に稲を狐が配った。その稲を感謝の意味と、又配ってもらひたいといふ意味から、お百姓が田圃にお宮を建てて祭った。それが正しい意味であります。所が、世は邪神の世となって、狐を使って悪い働きをした。

邪神の親玉として出たので、豊川稲荷などに荼枳尼(ダキニ)天神といふのを中途で祭ったが、あれは金毛九尾の狐で、以前は稲の意味ばかりであったが、今度は何でも利く利益があるやうになった。

芸者や女郎が人をだまして金が余計入るとか、財産を潰す事などを願って、それを狐が引受ける事になって、全然本来の使命は没却され他の事になり、その為に正一位稲荷大明神と明と神とを入れ、鳥居とか食物を上げさし威張って、終には人間を下に見下すやうになった。之は人間が奉ってそうしたんで、稲荷の根本はそういふ意味なんであります。

今東京でなど、百姓でない人が祭る事は全然違ってゐる。狐がどんな神通力があっても、四ツ足で人間より下のもので地べたを歩くものです。これに家の中で人間より上に祭るといふのは大変な間違ひで、霊界ではそこは地べたになるから人間のゐる所は地の下になる訳ですから、狐を祭れば災難や病人が絶えず、うまく行かぬ。之は卜者(ウラナイシャ)よりもよく当る。

ですから、家の内には絶対祭ってはいけない。但し、祖先が畜生道に落ちて狐に生れて来る事がある。そういふ場合は祖先ですから、祭ってはいけないと、その宮を壊はすのはいけない。そういふ稲荷は、庭なり空地へ丁重にお祭りする。如何に祖先だと雖も天地の規則は枉げられぬ。

四ツ足を座敷に祭るといふ事はいかん。丁重に祭ると稲荷も、喜び、益々その家を守ってくれる。たゞ人間より上の座敷に祭るといふ事はいけない。よく四ツ足の事ですから、稲荷が祟ったりなどするから、気を付けなければならないのであります。