御講話 (昭和十年五月一日)

只今竹村会長がお話になりました如く、私は昨年の今日、麹町平河町へ病気治しに依って、大きな経綸を始めたんであります。そして、今年の一月元旦から観音会を創立しまして、丁度四ケ月経た訳であります。それで、その僅か四ケ月間に日に月にと申し上げたいのですが、実は日に日に発展して参りつつあるのであります。

それで、八年前から観音様が種々な仕組をなされたんでありますが、それが皆五月一日から始まってゐるんであります。それで、今年も五月から必ずや一大転換するものと期待してゐた所が、つい一週間ばかり前迄は、ある点は非常に変らんとしつつあるが、目に見える何物もなかったんであります。

すると、ひょっと清水さんが来た時、家を探して貰ひ度いと頼んだんであります。今迄家を探す時は必ず清水さんを働かした。そうすると必ずあるんであります。之は又妙な因縁で、家の事も去年から他の人に頼んだがないのです。

所が、今度は清水さんに頼んだ所、清水さんは、「待ってゐました、いつかそういふお言葉があらうかと思ってゐた、いよいよ之で目っかるんだ」といふ訳で、早速探したんです。所が私の希望するやうな家があったんであります。一寸みた丈であったんで、そんな家が貸家として一寸みた丈であるべき家ではないのであります。

応神堂の家を探す際には、九尺の床の間があって門構えの家で、家賃は七八十円の家を探すやうにといふ条件であったんですが、今度は、地所の高い所で堂々たる立派な家でなければ駄目だといったんで、なかなか難しい条件だったんです。

所が二三日経って言って来た。そういふ家がそう早くある訳はないのですが、二三日前行ってみました処思ったよりはいゝ。先づ申分のないといふ家なんであります。所がそれを先方のいふ儘にすると、先方で五月一日に契約したいと言ふのです。丁度五月の一日から大変した事になります。先刻契約が済んだ所で、之もなかなかそういふ風に家を貸すのは非常に偉い。容易に貸すわけはないのであります。

無論竹村さんの御尽力もありましたでせうが、兎に角非常にスラスラと思ったよりは楽に巧く行った訳なんであります。

それで、一日に契約して引越すのは何時かと思っておりますと、昨夕観音様からお示しがあって、五月五日に越すやうに、との事でして判ったのです。成程五月五日に越さす為に、わざわざどんづまりまで延したんだ。もしか早くすると五月一日に越す処なんですから、観音様の方で間際に決めさせたので、壁も損じ、変梃な西洋間があって、畳を入れたり方々修繕したりして、丁度五日に越すとよいのです。

又、五月五日といふ事は大変観音様にとって意味があり、私が前に神界即ち神様の方の世界の経綸にかかった時、桃太郎として初めて仕事の為出た日もやはり五月五日でありました。今度の五月五日も矢張り桃太郎の仕事をする事になります。五月五日の鯉幟は今度の観音会の事の謎であったんであります。

鯉といふものは出世魚と言って一番出世するものの意であります。鯉は魚の観音様で、真鯉は鱗が三十三枚あるんで、三十三枚ないのは真鯉ではない。先に勘定してみた事がありますが、慥かに三十三枚あります。

よく巧く行く事を登龍門をくぐるとか、又は登龍門を登るとかいひます。

之は、支那のある川を鯉が昇り、段々昇って行くと上流の方に登龍門といふのがあってそこまで鯉が登るといふ事であります。

鯉は出世魚といふ事から、五月五日に鯉幟を祝ふのであります。

「江戸っ子は五月の鯉の吹流し口先斗りで腸はなし」

といふ事がありますが、これも神秘のある事で、私は江戸っ子ですから、口先ばかりで腸は無いと言ふ方であります。五月の鯉幟の口--

観音様がやっておられるとすると、いゝ方からいへばそれになるから結構であります。

観音様は一番位の高い所から一番低い位へ落ちて、それから一番高い位へのぼられるのであります。

今年の五月五日から一歩出世したといふ事になります。之は自分自身で出世したといふのではなく、惟神で観音様がそうするんであります。

そういふ訳で五月といふ事は大変な意味があるのでありますから、今月から非常に模様が変ってくるんであります。

観音会は一層急速に高く変ってくる。又、広く信者が出来ると共に、又高い所へ出来て来る訳で、それに就て不思議な事があります。

今日東光社で、今新聞売ってる人が三人ありますが、先にはもっと沢山おったんですが、方々へ散らした為に丁度三人丈残ってゐるんであります。それが、今日の売れ方が一人が五十一、一人が六十一、一人が七十一で丁度五六七となり、みな一部宛余計に売れてゐるんであります。一部宛余計に売れたといふ事は、一は初まりであります。いつもいふ五六七はミロクですから、今日がミロクの始まりといふ事になるんであります。

も一つ不思議な事は、一月から先月まで四ケ月間に、御神体を奉斎した方が三百六十一人あるのでありまして、之も五六七の始まりといふ事になります。斯の如く実に神秘であります。

今迄、新聞を長い間売っておりまして、前には大抵愛善新聞売ったんですが、長い人は三年も売っております。所がその事はすべて、今日東方の光を売る稽古になっております。今日のように三人行って、五六七と言ふ不思議な数字が出た事は未だ嘗てない事であります。

何故観音様は、そういふ不思議をなさるかといふと、それは観音力は斯様に自由自在である事をお見せになるんであります--でありますから、どんな事でも訳ないといふ事を随分私は今迄見せられたのであります。

その結果、私が観音力の絶対を信じた、病貧争のない世界、或は世界統一位も何でもなく出来るといふ確信を得られたんであります。

で、之から第二段の経綸の初めになりますから、抱負として其経綸の一端をお話する訳であります。梯子段なら今迄一段上ったんで、今日から又一段昇るのであります。

此前、応神堂が出来てから応神堂に対し本部が出来ました。所が今度の家は応神堂よりはずっと立派ですから、それに相応して本部が出来るんであります。出来るかどうかじゃない、必ず出来るんであります。

人間のやる事ですと、出来るかしらといふ事がありませうが、観音様のやられる事ですから、必ず出来るんであります。それが出来ると、今度は借りないでも思った通りなものが出来るんで、段々大きく拡がって行く。之は実に判で押すよりも間違なく行くのであります。

いつもお話する、大光明世界建設、病貧争のない世界といふ事は、一体どういふ風にすれば出来るかといふ事になりますが、之に就てはその根本があります。

何でも物事には根本があります。根本さへ出来れば、枝は放ってをいても出来て了ふのであります。

然らば根本は何かといひますと、この世界は人間でなっておりますから、根本は人間であります。

人間が立派に完全になればいゝ。その根本が立派になればいい。で、人間は霊と体、精神と身体とで成ってゐる。それが本当に立直ればそれでいゝんであります。 すると、その根本は人間の精神と肉体、それを健全なものにする事であって、それをどうすればいゝかが問題であります。



人間といふものは、健康で働かしむべきものに神様から拵えてある。決して病気などすべきものではない。病気するのはよくよく天理に外れた事、間違った事をしてるに違ひない。

それで現代は病気の人ばかりで、健康な人といふものは珍らしい。たっしゃで健康ならば結構といふ。元来病気はあるべきものではない。

病気が治らねば、世の中は直らぬ。

よく医学をわるく言ひますが、医学がわるいのではない。有の儘言ふと医学ではなかなか病気が治らぬ。治らぬ為に種々の方法をとって、機械とか薬が要るのであって、今日の医学の病名とか機械とか、薬の名を皆覚えるのは不可能の事と思ひます。 本当に治るものならば、たった一つでいゝと思ふ。何となれば、病気の原因は一つですから、その病気の原因といふのは罪穢であります。

それで、その罪穢を取る機械が出来れば、病気はみんな治るのであります。治す方法は一つなのであります。その人の弱い所へ罪穢が溜り病気になるのですから、その罪穢をとる薬なり、機械が出来ればよいのであります。

それは、薬や器械ではとれぬ。そういふものを作ったら治るかといふと、ロボットならば科学で作ったもので治りますが、もっともっと人間といふものは、想像もつかぬ霊妙なものでありますから、どうしても、人間の肉体の問題は科学より深い神秘的なもので解決せねばならぬのであります。

所が、その器械が出来た。それを観音会で発表したんであります。即ち罪穢を除る器械であります。それは人間を使はねば出来ない。

人間は神が生された。神の代りが出来るものなんであります。人間を使って人間の罪穢をとるのであります。今度、本部で指圧療法を始めるといふ事は、罪穢を許す、罪穢吸収機関を発売するわけで、指圧療法の習い度い方はどなたでもお教へする。 教へる部分もあり、頭がわるいとか、目がわるいとか、肩が凝るとかいふのを直す急所を教へるんであります。

今仮りに肺のわるい人があるとすると、医者は肺病とみます。所がその肺の元があります。

役者が舞台で踊るにも、楽屋で化粧し、創作家の脚本によって動くのであります。それ故演劇は楽屋と脚本が元であります。

で、その様に肺の痰が出るにはどっかにその本があります。それが医学では判らないのであります。

私は観音様から教へられた所により、急所を教へるんであります。急所をやって行きますから病気は必ず真から治ってゆく。現はれた所を治すのは制える丈のもので、丁度、芝居をみて云々するやうなもので、どうしてもその楽屋の方を治さねばなりません。それには、先づ一ケ月以上かゝります。一ケ月程で判る人もあり、人によってはそれでも難しい事もあります。

も一つは学校で教はる如く覚えたのみではなく、世の人を救ふといふ大信念がなくてはならぬ。

世界人類を救ふ、大光明世界建設の為に力を竭すといふ高い意志がなくてはならぬ。そういふ高い意志がないと間違ひが起るのであります。そういふ間違ひない意志、人格的にみて間違ないとみれば、分院の開設を許す事になるんで、だんだんそういふ人をふやして行くんであります。

そして、岡田式神霊指圧療法はとてもよく治る。料金も安く短時日で治るといふ信用を得、又非常に親切で真剣に治すといふ、凡ゆる事の信用を得なければならぬのであります。

そうすれば、観音会へ入る信者が沢山出来る。そうして、入った人は病貧争がなくなるといふ風になる。結局、各町内に一個所宛指圧療法の分院が出来るやうになり、初めて人間は薬や医者の治し方は違ふ。日本医学より他に病気を治すものはない。

どうしても、日本式健康法でなければならぬ事を社会の人が知って、それで初めて健康問題は解決するのであります。そういふ観音様の御目的であられるのであります。 でありますから、之からは指圧療法の先生の養成をする。夫(ソレ)が罪穢を除る器械になるのであります。

今迄凡ゆるものが皆枝葉末節に走っております。之が実に不思議であります。元を閑却して現はれた枝ばかり攻めて、それを無くそうとしてゐたんであります。

先刻お話した通り、あらゆる方法で人間にわるい事をさせぬ機関を作るといふ事は、要するに枝葉末節の方法であって、観音会はすべて根本をせめる。無くすんであります。そういふ末節の機関法律とか警察を無くすんであります。

それは個人の心を治すんで、悪い事をしない心の人間を造ればよいのであります。それでこそ初めて人類が人間としての価値がありと思ふのです。打っちゃらかしておいても悪い事しない。之が万物の霊長たるものゝ所以であります。

基督教では、人は神に似せて作られたといふ事がありますが、神に似せて作ってあっても行ふ事が獣であってはいけない。少くとも四足の境涯を抜け出た人でなくてはならない。

西洋文明の方は、人間が悪い事しない様な道具は実に発展しております。獣を入れる檻は実に巧く作ってあると言っていゝのであります。

日本の大和魂は檻も何にも無くても、決して悪い事をしない。そういふ高等な人間を作る。それが観音会の主なる目的であります。ほったらかしておいてもわるい事をしない。病気をしない。之丈で後のどんな問題も解決するんであります。そうすれば、食へない人間がなくなる。

人間が目につかない事で金を払ふ約束を実行しない為に、どの位円滑を欠いてゐるか判らない。人間が儻(モ)し約束を履行するやうになれば裁判所などは要らぬ。帳簿の記載なども--。

金に困る事がない。実に円滑極まる。貿易の発展は大変なものであります。賄賂をとったりなどせねば貿易が出来ぬやうでは非常に困る。賄賂をとった為どの位手数がかかるかわからぬ。その賄賂でとった金を以て病院を建てたり--

こういふ犯罪まで行かない程度のもので、人間が多くの労力を失ってるのは如何にも大きい。

こういふ無益な事が無くなりますから、生産能力は非常なものになるので-- 大光明世界が出来ると、人間は三時間働いたゞけでも食ふものに困らなくなる。今日の交通機関や、衣食住等とても善美になるんであります。庶民一般も非常に立派な着物を着る。立派な家屋に住む事になるんであります。今日の労力の少くとも半分は、軍備とか○○○とか病気の為、或は機械の為費す。

種々の監獄とか警察をつくって、わるい事させぬ種々の機関を作る。学問にしても余計な学問が半分以上あります。そういふ事の為に食って楽しむといふよりは、悪の為にする入費が多い。悪に属する苦しみ楽しみの方面の労力は、八九割位の見当と思ふのであります。

そう考へる時、人類は如何に不知不識の間に、間違った事をしているかゞ判るのであります。観音様は、そういふ間違った事を段々之からかへて行くんであります。 それでは、そんな間違った世の中を何で神が作ったか。万能の神として可笑しい理屈になる。所が元来人間は、又凡ゆるものは、霊と体とで出来ております。之を別ければ、陰と陽、火と水の如きもの-更に分ければ、善と悪になります。

霊は絶対の善、体は絶対の悪になります。といふやうに考へて行くと判りますが、絶対の善と絶対の悪と両方あるのであります。物質は全部悪で出来ております。で、悪はいかん--とは言へぬ。善悪相混じて、初めて森羅万象が出来てゐるんであります。

之を発達するのに、物質を発達させるにはどうしても悪でなくてはならぬ。善ばかりでは物質の発達は出来ぬのであります。

それで神は物質の発達の為に悪を勝たしたんであります。然し全然悪を勝たせば世界は破滅する故、悪を或程度迄勝たしたんであります。戦争とか病気とかと雖も、その為に必要だったんであります。

一言例を挙げて云へば、皆、嫌ふ黴菌でありますが、之が大変必要なものなんで、虎列剌(コレラ)とか、赤痢とか、肺病とか、窒扶斯(チフス)とか、黴菌とかゞ絶対必要であります。若し之がなかったならば、人類は滅亡してゐるんであります。

それは変だといふやうにとれますが、あれは何だかといふと人間の汚物を掃除すべき役で、之を媒介する蠅は大変な役割をしてるんであります。之は大変衛生に逆らふ様ですが、凡ゆるものは、不必要なものは存在を許されぬのであります。

万能力、絶対力は不可なる物は一瞬にして殺すんであります。たゞ人間の目でそれをわるいと勝手に決める丈のもので、神の方では必要なものであります。 黴菌は何の為にあるかといふと、人間は汚いものが溜るんで、それを掃除しなければ早死するんであります。

で、止むを得ず黴菌が作られたもので、窒扶斯だの肺炎だのある為に人間は長生してるんであります。私も三十位の時腸窒扶斯をやったんで寿命がのびたんであります。

つまり汚い物が溜るのを、黴菌が附いて毒素をとるのであります。腸チフスだの赤痢だのいふのは、掃除する工作の為病人を起す。

でありますから人間に汚物が溜らなくなれば、黴菌はなくなるのであります。 ですから、大光明世界が建設されれば、伝染病などは無くなるんであります。それは沢山溜る事がなくなるから必要はなくなるのであります。

で悪の必要があって、神は悪を許されたんであります。

もしか悪がなければ戦争とか、争闘がなく種々な発明などが無かったのに違ひない。

若し欧洲大戦がなかったならば、飛行機とか無線科学は今日迄に発達しなかったでせう。その為に、人間は如何に苦しんだ事か知れません。それで不知不識文化が発達したんであります。

之迄発達すれば、大光明世界が出来る条件が備わった。もうこゝいらでよさうといふのが神様の思召しなんであります。実に有難い時期になったものであります。物質文明の発達は逆でなければならぬ。それで悪を上にし善を下にしたんであります。之をさす為に、猶太(ユダヤ)人を使って悪で発達せしめたんであります。

で悪の役をしたのが猶太人で、猶太人の本体は素盞嗚尊で素盞嗚尊の本体は伊邪冊尊であります。 今迄の人類は病気をし、悪い事をしたがる人間にしてあったのは、そういふ為にしてあったので、之はよく云ふ事も悪く言ふ事も出来ないのであります。止むを得ずの事であります。で何時迄も之を真理としてゐてはならぬ。目醒めなければならぬ。それで、今度はどうなるかといへば、善悪一致になる。

それは善の世界であります。善の世界でありますから、善にはあらず悪には非ず、善であり、悪であり、善にはならず悪にもならぬ。といふのは善が上に位する。善を上にするから人間を苦しめない。今日の発達した文化を非常によく発達さす。それを今後観音会が中心となって実行する。見本を見せるのであります。観音会の人、観音会の家庭が、その見本になって行くんであります。

その観音会の人は観音行をすればいゝ。つまり、当りまへの事をしておれば家は富み栄え、今迄の社会の人が羨む家庭が出来る。段々進んで行くに従ひ立別けがついて行くんであります。

益々はっきりする。観音信仰の人は益々よくなる。出世をする。大きくなる。そして、観音会員の家庭は目立ってよくなってくる。

もうそういふ時期になると、宣伝の必要がない位になる。嘘のやうな時機が来るんであります。今迄始終云って来た事が、順々に出て来つつあるのであります。でありますからいよいよ進展の時期となり、今月から一層顕著になって来るんでありますから、そういふお考へをもってやられるやう。

そうなれば、今迄より判る人が多くなってくる。病気の治し度い方はどしどし開放的に授けますから、申込んで下さい。

いづれ大きな本部も出来、日本医学の病院もつくりますが、その時は西洋医学も、漢方医学も、いくらか取入れるかも知れません。そして日本医学をつくり、如何によく治るかといふ事が判りますから、逆輸出する積りであります。医学は今以て大輸入超過になってをります。之を段々、日本医学を造って輸出する考へであります。でありますから、大変国益になると思ひます。

指圧療法をするにはいゝと許可を与へればお守を上げます。それへ字をかき懐へ入れると観音力が出るんです。そういふものを一つ百円で売ります。百円は現金でも月賦でもよいので、たゞお守りを懐へ入れてやれば、飯が食って行けるんですから楽なものであります。そういふお守りを大いに輸出しやうと思ふのです。西洋の薬のように種々つくらなくても、一つで何千人何百人と出来るんですから。

実際言ふと凡ゆるものは、日本でいゝものが出来る。そうすると、初めて世界を統一する事になる。又お守をかければ、わるい事が出来なくなるお守りも出来るから、悪人をなくすも訳はない。又貧乏にならないお守りも出来るんであります。ですから之は実際に出来るんであります。

ですから嘘のやうな本当の事が実現するんですから、人類社会の組織はすべて大転換をする。自然にするんで、それが観音力なんで人間が苦しんでしない。楽にやってゐて大変な事が出来る。骨を折らない程観音力であります。じーっとして私は家にゐればよい。みな観音力で出来るんだと、観音様は言はれるんであります。たゞ座ってをれば必要なもの又必要な人が集って来るんであります。それは、私が引張るんでなくて、先方から来るんであります。