御講話 (昭和十年四月十一日)

私は日本医学といふものを拵える事と、それから、宗教の本当の行り方、本当の考へ方そういふものを段々と発表してゆくつもりなんであります。

で、何が人間は結構であるかといふと、先づ何より彼より第一番に健康である事は、いつもお話する事であります。仮令、如何なる結構な宗教や救ひが出やうとも、人間を健康にする力がなかったら、決して結構な宗教でも救ひでもない。

どんな偉い方でも、どんなにいゝ身分であっても、病気で苦しんでゐて何が結構と言へませう。どうしても健康を解決し得るものでなくしては、本当の宗教ではない。何年何十年と信仰してゐても病気で早死するものがありますが、それは決して本当のものではない。

段々観音会が進展して行くと、観音会には病気がない。もしあれば、観音会をやめた人か、お邪魔する人かで、病人はないと私は断言するんであります。之が段々拡がって行くと、病人のない団体が出来るんで、恐らく世界始って以来病人のない団体といふものは、未だ聞いた事がない。それで病人のない世となれば、貧乏の半分は解消するんであります。

今貧乏の原因は殆んど病気で、病気の為に稼げぬとか、病院は高くてなかなか治らぬ。金持ならいゝが中流以下ではとてもかゝれぬ。重病などになると、先づ長い間稼いだものさえも潰れて了ふ。少し重い大病などがあれば大抵の身上だったらふっ飛んで了ふ。之は多くの人々の普通の道程であります。

今日皆さんが稼いで貯金するのは何の為かと申しますと、何時病気になるか判らぬ。病気になったその時病院へ入れぬやうな事があったらといふ心配からであります。

それで病気は金で治ると思ふより仕方がない。一家に四、五人の家族があるとすると、大抵は何年目かに病人がある。するといくら稼いで貯金をしててもすぐに無くなる。

そこで、病気がなくなり健康であれば、貧乏になる大半は救はれる訳であります。で、貧乏が救はれれば争ひがなくなる。大抵の争ひは経済上の問題の場合が多いのであります。ですから、先づ病貧争の大部分は健康から解決出来るといっても過言でないと思ひます。


それで一方、精神方面の事をお話すれば、本当は他宗の攻撃するなどよくないのですが、よくないけれども黙っておっても仕方ない。黙っておって解決すればいゝのですが、黙ってばかりいても解決がつかぬ。やはりいゝ事はいゝとし、悪い事は悪いとせねばならぬ。

それは、確かに既成宗教に依って救はれてる点は沢山にあります。若し釈迦、基督が現はれなかったならば、もっともっと人類は悲惨な状態になってゐたか知れない。如何に今日迄人類を救った事か、その点は大いに感謝しなければならぬ。

で、それでも今日のこういふ社会を結構と思ふ人はない。それはどこまでもよくしなければならない。進展止むなきは神の御心であります。でなくば、宇宙意志とも言へます。

人類は是まで進化したけれど、もっともっと、より一層高等の文化をつくり、高等の人類にしなければならない事は当然の事であります。で今迄の宗教の力ではそれ以上高等にはならない。

それには、それ以上に人類を進化せしむべき力が要る。それが観音力であります。 例へてみれば、今日人間は大変な進化をした。成程、野蛮未開の時代からみれば、大変な進歩をしたんであります。成程、徳川時代には試し斬りとか、切取強盗等といふものがあって、人心は安心して暮せなかった。

今日は電気など出来て明るくなり、何等そういふ心配はなくなった。それは大いに感謝しなければならぬが、それでも、今日の世から警察とか、法律をとれば果して安全かといへば、之は誰しもうなづけぬ事であります。各地に厳めしい警察があり、裁判所あり、コンクリートの牢獄あり、各町には交番が幾つもあって、巡査が始終見廻ってゐる。それでも尚足らず、刑事や特高、探偵などが扮装して隈なく徘徊して、種々の取締り機関があって初めて安全を得ております。

それでも未だ本当じゃなくて、刑事民事にも種々の設備があり、或は人事相談所があり、不倖せな者に対しては、養老院だとか孤児院だとかがあり、或は救世軍だの本願寺だなどといふものがあって社会事業に尽し、法律は益々微に入り細に渉り出来てゆく。

それで初めて人類は安心してゐるやうだが、それでも未だ安心が出来ない。 昨日の新聞でみると、少年神兵隊といふものが出て、偉い人達、西園寺など国家の元老、あゝいふ人達の身辺を狙ってゐる故、此間の満洲国の皇帝がみえた時でも、お側でお顔が見えぬ位に警戒が厳重であります。

そういふやうに種々と人間を取締る道具は実に完備したといへる位にある。此為に使ふ費用は大変なものであります。それ程迄にしても、未だ未だ人間はわるい事をするんであります。未だ未だ法律の網をくぐる悪い人間が沢山にゐるのであります。

金を借り倒したり、家賃をふみ潰すとか、詐欺、万引、強盗、殺人など、それをくぐってわるい事するものが未だ未だ沢山ゐて、子供でも感化院などあり、或は宗教的感化をする設備など沢山にある。

それで人間は文明になって有難いと言ってゐるが、未だ未だ神の御目から御覧になれば人間といふものは仕様がないのであります。

種々とおっかない道具立てをして、僅かにわるい事をしないやうにしてるだけのもので、恰度、虎狼を檻に入れて監禁しておくに等しいと思ふのであります。之で万物の霊長だなどと威張ってゐるのは恥しくないかと思ふのであります。