御講話 (昭和十年四月五日)

天津金木は、天照大神様が押込められし為御身代りとして御作りになり伝えられたるものにして、之が判れば、森羅万象総ての事は皆判るのである。されど、今書物等によって是れを知ることは絶対出来ないのである。昔は口伝えにより伝えられ、稗田阿礼まで伝えられた宇宙の魂の如きものである。私は、浦和にて古文書を見たる時、霊感により知ったのである。私は五十万年以前より五千年前迄の歴史を知ってゐるのである。それは、神憑りになった時知らされたのである。

昔の古い文書は神武天皇がお焼きになって終ったのであるが、其時、一人の家来が一部の物を持って逃げ、是れをかくして土の中にいけ込んで置いた。それが今に伝えられた。是れは、武内宿弥の家に伝えられ、例の天津教の武内家にあるものにして、武内家には、その中にあった三種の神器の本物を持っているのであるが、宮内省に献上しようとした時宮内省では受付けなかったのである。

いよいよ大光明世界を建設するのは、二十五年位後の事にして、これは世界統一の時の事にして、日本だけなれば、まだ早く出来るのである。

日光東照宮を型として戦場ケ原に一大神殿が建立される。其の柱の如きは、大理石の丸柱の上に金にて龍などを書きたる雄大なるものにして、其時分になれば、金等何程でも出るのである。地軸は金の柱にて、直径十里位は太さがある。これを以ってしても何程今後に於て出るか判らんのである。この時の事を祝詞に書いてあるのであって、瓦の如きも金なのである。「多宝仏塔聳り立ち、七堂伽藍は霞みつつ、黄金の甍燦々と」とある如くに事実なのである。戦場ケ原は海抜四千尺の高原にして、三里四方平面の地にして、川あり滝あり、実に立派な処である。