凡そ天地の真理を知る上に於て、経と緯の意味を知る事が最も肝要である。此事は今迄にも幾度となく説いて来たが、尚一層詳しく徹底的にかいてみよう。それに就ては先づ根本的認識である。それは私が常にいふ日は火で、火は経に燃ゆるものであり、月は其反対に水で緯に流動するものである。従って日の本質は高さであり、月の本質は広さである。此理によって今地球を説明してみると、地上の空界は水素が緯に流動してをり、火素は経に上下を貫いてゐる。つまり経緯の精が綾のやうになってをり、布地の如きものである。而もそれが想像を絶する程の密度であって、此事実として卑近な例ではあるが、人間が横臥すれば寒いのは、緯に流れてゐる水の精によるからであり、起きて経になれば暖かいのは、経に昇降してゐる火の精によるからである。又火は霊的、精神的、陽であり、水は体的、物質的、陰である。此理は世界の東西文化をみてもよく判る。東洋は経であるから霊的、精神的であるに対し、西洋は緯で体的物質的であるから、今日の如き科学文化が発達したのである。宗教に於ても仏教は経であるから、経文といって経の字を用ひてをり、祖先を崇拝し、子孫を重視すると共に、孤立的であるに反し、キリスト教は祖先を祀らず、夫婦愛を基調とし、隣人愛を本義とし、どこ迄も国際的緯の拡がりである。
右の如く、今日迄の世界は、東洋文化の精神的に偏した思想と、西洋文化の物質的に偏した思想とであったが為、どちらも極端に偏する以上、一切が巧くゆかなかったのである。従って人類の苦悩は何時になっても解決出来ず、世界の混乱は停止する処を知らない有様である。斯うみてくるとどうしても経緯両方が結ばれなければ、完全な文化は生れない筈である。としたら此経緯の結ばる時こそ問題であるが、驚くべしそれが今日であり、其力の行使こそ本教の使命であって、本教のバッチがよくそれを表はしてゐる。次に私は前から言ってゐる事だが、観音力の働きもそれであって、即ち経にも非ず、緯にも非ず、といって経でもあり、緯でもあり、何れにも偏らない応変自在であるから、千変万化、自由無碍といふのも此意味である。此理によって人間の心のあり方もそうなくてはならない。即ち心は常に原則として経緯結びの中心に置くべきで、之を一言にいえば常識である。本教が特に常識を重んずるのはそういう訳なのである。処が世間常識人は洵に平凡に見らるるもので、反って偏る人の方が偉く見へるものであるから、此点大いに注意すべきである。事実此偏在精神の持主が、偉く見ゆるのは大抵一時的であって大成は出来ない。何時かは必ず失敗する事は、歴史がよく示してゐる。
右の如く経は高いが小さく、緯は低いが大きいのが真理である。従って私は此方針で進んでゐるので、例へば箱根と熱海がそうである。箱根の聖地は高くて小さいが、熱海のそれは低くて大きいのである。又経は霊であるから箱根を先に造り、熱海は体であるから後に造るので、之が霊主体従の順序であるからで、此通りにすると実に順調に巧くゆくが、少しでも之を狂はせると、必ず故障が起るのは殆んど絶対的といってもいい。実に神様の御経綸こそ、一糸紊れず洵に整然たるものである。
(文明の創造 昭和二十七年)