今迄詳しくかいた如く、病気は浄化作用であり、医学は浄化作用停止を、治る方法と錯覚して来た意味は判ったであらう。之に就て今一層徹底的にかいてみるが、世間一般の人が健康そうに見えて、兎も角働いてゐる人の其殆んどは毒素を保有してゐながら、強く固結してゐる為、浄化作用が起らない迄である。従って何時突発的に浄化が発生するか判らない状態におかれてゐるので、何となく常に不安があるのは此為で、恰度爆弾を抱いてゐるやうなものである。少し寒い思ひをすると、風邪を引きはしないかと心配し、伝染病が流行すると自分も罹りはしないかと案じ、一寸咳が出たり、身体が懈かったり、疲れ易いと結核の初期ではなからうかと神経を悩まし、腹が痛いと盲腸炎か腹膜炎の始まりではないかと恐怖する。風邪が拗れると結核を心配し熱が高くてゼイゼイいふと、肺炎を聯想する。一寸息が切れたり、動悸がしたりすると心臓病を懸念し、足が重いと脚気じゃないかと想ふ。眼が腫れボッタイとか、腰が重いと腎臓ではないかと疑ふ。女などは腰や下腹などが痛かったり、冷へたり、白帯下が下りたりすると、子宮が悪いのではないかと苦労し、子供が元気がないと大病が発る前兆ではないかと心配する。といふやうにザットかいただけでも此位だから、今日の人間が如何に病気を恐れ、怯えてゐるかは想像に余りある。
そうして一度病気に罹れば医者に行き、薬を服むといふ事は、常識となってゐるが、よくも之程迄に医学を信じさせられたものと感心せざるを得ないのである。とはいふものの私としても昔の自分を考へたら、人の事など言へた義理ではない。斯ういふ事があった。確か三十歳前後の頃だと思ふが、信州の山奥の或温泉場へ行った時の事だった。旅館に着くや否やイキナリ女中に向って『此温泉場にはお医者が居るか』と訊くと、女中は『ハイ、一人居ります』私『普通の医者かそれとも学士か』女中『何でも此春大学を出たとかいふ話です』それを聞いた私は、之なら二、三日位安心して滞在出来ると、腰を落着けたのである。処が其後世間には私と同じやうな人もあると聞き私は変ってゐない事を知った訳である。又斯ういふ事もあった。人間はいつ何時病気に罹るか分らないから、そういふ場合夜が夜中でも電話一本で飛んで来て呉れるやうな親切なお医者さんを得たいと思ってゐた処、恰度そういふお医者さんが見付かったので、出来るだけ懇意にし、遂に親類同様となって了った。現在の私の妻の仲人は、其お医者さんであった位だから、如何に当時の私は、医学を信頼してゐたかが判るであらう。
従って、今日一般人が医学を絶対のものと信じてゐるのもよく判るのである。処が其医学なるものは、実は病気を治す処か、其反対である事を知った時の私は、如何に驚いた事であらう。然し之が真理であってみれば、信ずる外はないが、そんな訳で現代人が医学迷信に陥ってゐるのも無理はないと思へるのである。忌憚なく言へば自分自身の体を弱らせ寿命を縮められ乍ら、医学は有難いものと思ひ込み、それに気がつかないのであるから何と情ない話ではないか。従って此迷信を打破する事こそ、救世の第一義であらねばならない。といっても之を一般人に分らせる事は実に容易ならぬ問題である。前述の如く医学迷信のコチコチになり切ってゐる現代人であるから、実際を見聞しても、自分自身や近親者の難病が浄霊によって治ったとしても、直に信じ得る人と、容易に信じられない人とがある。だが大抵な人は医学でも凡ゆる療法でも治らず、金は費ふし、病気は益々悪化する一方で、遂に生命さへも危い結果、中には自殺を計る者でさへ、偶々浄霊の話を聞いても、容易に受入れられない程、医学迷信に陥ってゐる現在である。然し絶対絶命の断末魔とて、茲に意を決し、疑ひ疑ひ浄霊を受けるが、其時の心理状態は最後に載せる報告にも沢山あるから、読めば分るであらう。
以上は、現代人が如何に病気を恐れてゐるかといふ事と、医学を如何に信頼してゐるかといふ事で、前者は全く医学では治らないからでよくある事だが、一寸風邪を引き、熱でも高いと之は大病の始まりではないかと案じるが、其半面之しきの風邪位が何だと打消そうとするが、肚の底では万一の心配も頭を擡げて来る、といふのは誰しも経験する処であらう。之は全く医学そのものに、全幅的信頼を措けないからである。処が、本当に治る医学としたら、風邪や腹痛などは簡単に治るし、名の附くやうな病でも適確に診断がつき、其通りになるべきで、如何なる病気でも、之は何が原因で今迄の療法のどの点が間違ってゐるか、どうすれば治るか、予後はどういふ風になるか、命には別状ないかあるかも手に取るやうに判り、病人に告げると其言葉通りになるとしたら、誰しも医学に絶対の信頼を払ひ、病気の心配などは皆無となるのは勿論、病気は浄化作用で、体内の汚物が一掃され、より健康になる事が分る、としたら寧ろ楽しみになる位である。といふのが真の医学である。では此様な夢にも等しい治病法がありやといふ事である。処が驚くべし之が已に実現して偉大なる効果を挙げつつある現在である。そうして吾々の方では病気とは言はない浄化といふ、何と気持のいい言葉ではあるまいか。然し事実もそうであるから言うのである。茲で標題の真健康と擬健康に就てかいてみるが、擬健康とは前述の如く、固結毒素があっても浄化が発生してゐない状態であり、真健康とは毒素が全くない為、発病しない状態である。然し後者のやうな人は恐らく一人もないであらうし、健康保険制度も其不安の為に出来たものであらう。
右の如く現代人の殆んどは擬似健康者であるから、大抵の人は何等かの持病を持ってゐる。少し仕事をすると、直に頭痛や首肩が凝ったり、一寸運動が強いと息が切れたり、微熱が出たりする。又風邪を引き易く、一寸した食物でも中毒したり、腹が痛んだり下痢したりする。年に数回以上は病臥し、勤めを休み、何年に一度は入院するといふやうな訳で自分自身の健康に確信が持てず、常にビクビクしてゐる。酷いのになると矢鱈に手術をする。少し金持の中年の婦人などは、盲腸を除り、乳癌の手術をし、卵巣も除り、廃人同様な人も少なくない。又一般人でもひょう疽(ヒョウソ)や脱疽で指を切ったり、片方の腎臓を剔出したり、喘息で横隔膜の筋を切ったり、脳の切開、手足の切断や、近頃は結核の手術も流行してゐる。といふやうに虐い事を平気でやってゐる。処が医学は斯うするより外に方法がないから致し方ないが、今日の人間程哀れな者はあるまい。従って之程の文化の進歩発達も、其恩恵に浴する事が出来ず、病床に悩んでゐる人も少なくないのである。右の如く病気の種を有ってゐる擬健康を無毒者となし、真の健康者を作り得るとしたら、之こそ真の医術であって、人類にとって空前の一大福音であらう。
(文明の創造 昭和二十七年)