滑稽阿呆文学 南無諦め宗

日進月歩の世の中も、阿呆の眼玉で睨んだら、辻褄合はない事ばかり、偉い御方が高慢な、顔して真理がどうだとか仏教哲理がどうだとか、四角い活字を並べたて、鼻をオヤかしチョビ髯を捻って己は直々に、阿彌陀や釈迦から聞いた如な、事を偉そにぬかしたて、盲千人の世の中で、一端大家を気取ってて、巧く世の中渡ってる。

利口な人が相当に、あるとは娑婆も広いもの、どんなに理屈を難しく、捏ねても詮じ詰めてみりゃ、南無阿彌陀仏の六文字を、称えりゃ仮令悪人でも、救はれ往生出来るといふ、其上未来とやらへゆき、極楽浄土で暮されると、言ふそれ丈の話で御座る。

腰が曲ったヨボヨボの爺さん婆さんならイザ知らず、此の世は火宅じゃ厭離穢土、縦令難病に罹らふが、貧乏しやふが悪い奴が、蔓(ハビコ)り善人が苦しまふが、仕方なく泣く諦めるのが、本当の悟りで御座るとは、意気地なしにも程がある。こんな悟りが増えたなら、先づは印度の二の舞で、亡国思想といふものじゃ。

こんなはかない信仰が、躍進日本に未(マ)だ以て、相当幅を利かしてる、とは厄介な話で御座る。

生来皮肉な此阿呆、イカサマ物は一皮を、剥いでみたいのが好きな癖、依って之からチョッピリと、書いてお笑ひ草までに、御眼にかけると致すで御座らふ。

今から二千何百年天竺とやらで生れたといふ、法蔵菩薩といふ御方、之が未来の阿彌陀仏、其御姿に金箔を、ピカピカ塗りたて拝ませる、唯有難いの一点張り、御姿だけは勿体なく、有難そうであるけれど、魂は藻抜けの伽藍堂、それが證拠にゃ拝んでも、いくら御願したとても、病気は治らず一切衆生、救ふ所か肝腎の、大本山が親子争ひ、までするといふ其揚句、檀家の方からアベコベに、救はれ給ふといふ次第、寔に以て情ない、どう買被ってみたとても、現当利益はテンデ零其テレ隠しに世の中の、現当利益の宗教は、インチキ邪教とは白々しい、こうなりゃどちらがインチキか、説明するより読む人の、御推量に任す方が、いともはっきりするので御座る。

いくら老舗の品じゃとて、役に立たない物を売る、方が余ッ程インチキじゃ、新店(シンミセ)じゃとて気の利いた、便利な物を売る方が、確な店と言へる筈、まった未来で百万円、呉れるといふより現世で、一万両を貰ふ方が、ずっと結構では御座らぬか、斯んな下らぬ事を言ひ、社会事業でお茶濁す、時代遅れの宗教は、インチキ宗を通り越し、トンチキ宗といふ方が合ってゐるかも知れぬわい、現当利益は与りたいが、持合せのない苦しまぎれに、現当利益はインチキじゃ、現当利益は欲しがるな、未来の浄土をアテにしろ、それが本当の悟りじゃと、唯諦めの一点張り、之が見出しの南無諦め宗の、謂れ因縁かくの通りで御座る。

チット味噌かは知らないが、観音様は過現未の、三界万霊の救主、彼世此世の区別などと、吝(ケチ)臭い事は仰有らぬ、仏の中の親玉じゃて、現当利益も極楽浄土も、両方満足したいといふ、御方はどしどし遠慮なく、さあ入らっしゃい、入らっしゃい。

(光明世界五号 昭和十一年一月二十五日)