阿呆文学 貧乏製造宗

宗教と名の付くものは八宗や、九宗どころの数(カズ)じゃない。一寸指折り数えただけで、南無阿弥陀仏や蓮華経、だけで五十と六派あり。高天原が十三派、アーメンでさへ幾派あり。此外もぐりや名の知れぬ出来星宗教数えたら、幾何百かは判らない、それやこれやを信じたり、迷信したりする人も、幾千万か判るまい。

夫等信者は御利益を、タンマリ欲しい人許り、中には俺は御利益など、当(アテ)の有難信心じゃないぞ国家や人類の為を思ふて身命を賭してゐるんだと肩を張り、肘を怒らし偉そうに口には言へど肚の底、割って砕いて見たならば、大凡世智辛い世の中に骨折るばかりで結局は、御蔭が零と言ふ事が判ってゐたなら始めから、信仰する様な大馬鹿が、唯の一人もありますか、などと言っても見たくなる。

信心も詮じ詰めれば誰方(ドナタ)でも、御利益ウンと欲しい為め、一円上げて一万円に増して返して貰ひ度い、とは口先で言はぬ丈け洵に虫の好い希ひ、そんな欲張り連中が、箒で掃いて棄てる程、何処にもうようよして御座る。遉(サスガ)の神様仏様、苦笑ひして横を向く、とは知り乍ら宗教に、よっては巧く仕組んでる。欲張り野郎の肚の中、見抜いた様に巧い事、言ふも言ったり世の中が、愈々神様が言ふ通り大変りする時が来た。其暁は大出世が、屹度(キット)出来ると欲張り共が、涎を垂らしそうな餌、見せびらかすから堪まらない。錦魚(キンギョ)や鮒や雑魚(ザコ)共が、うかうか釣られて了ふので御座る。

斯んな調子で世の中の、有象無象(ウゾウムゾウ)を引寄せて、タンとも無さそな懐を、ウンと搾(シボ)っちゃ捲揚げて立派な御宮をオッタテテ、名前許りで中味の無い、出店を何百何千と、彼方此方(アッチコッチ)に拵えて、頭数さえありゃいいと、名前を並べる夫れ丈けの、亡者の如うな信者をば、何百万と拵えて、大宗教の威勢見せ、蔭へ廻って新聞や、其方此方(ソッチコッチ)へ丸いものを、コッソリと撒いては臭い物の、蓋止料にする等は、何処迄行っても抜目が無い。

斯んな事とは知らないで、何も知らないお芽出度い、善男善女はヒド苦面、しては年中御奉納、とは体裁が好いけれど実は締木(シメギ)に掛けられて、絞(シボ)って搾(シボ)って搾り抜かれ、どうにも斯うにもならないで、家賃は溜り借金は、山程に成って身動きも、出来ない程の為体(テイタラク)、親類縁者は何処も彼も、愛想尽かして見向きさえ、しない態(ザマ)ではお助けを、して呉れそうな事はない、まるで吹枯(スイガラ)しの飴の様、とは本当に可哀想、眼も当られぬ次第で御座る。

それに引換へ本山は、益々立派に相成って、御一統様は大名の、様な豪奢な暮し向き、湯水の様に流れ込む、信徒の汗や膏(アブラ)をば、教祖が生きて御座ったら、冥利が尽きると血の涙、お流しなさるで御座らうて、之を例へりゃ冬枯の、広い野原を見渡して、一本杉がニョキリと、立ってゐる様な形じゃらう、小作苛めの地主より、算盤(ソロバン)弾く商人より、ズッと上手(ウワテ)な搾取振り、斯んな無慈悲な行方(ヤリカタ)が、世の中救ふ宗教と、どう考えたとて受取れぬ。斯んなインチキ気が付かぬ、娑婆であるとは不思議で御座る。

先づ宗教は誰やらが、言ふた阿片か知らないが、金看板を懸けてゐて、インチキ流をやってゐる、大宗教がウンと在る。人の眼玉にゃ見えないが、恰度殺人メチールの、様な悪酒を飲まされて、グデングデンに酔払ひ、白いものでも黒く見え、青いものでも赤く見える。といふ様な色盲に、なって了って肝腎な、常識などと言ふものは、薬にし度くも無い程に、成って了ってはもう遅い、中には少し増なのが酔がそろそろ醒めかかり尻に帆掛けて逃げようと、思って試みるが神罰が、恐ろしいのでグズグズと、してはボンヤリ日を送る。

そうかと言って今迄の、様に踊るのは尚厭と、生きた亡者の如うになり、米食って糞を垂れる丈け、虫螻(ムシケラ)同然な日を送る、そんな可哀相な人間を、拵えてゐる宗教を、今度阿呆が名を命(ツ)けて、貧乏製造宗と謂ふ。

斯んな調子で生亡者(イキモウジャ)、ドシドシ製造されたなら、一体全体吾々の、愛する国家はどうなるか、経済財政国防や、対外発展覚束(オボツカ)ない。元気な国民無くなって、印度や朝鮮の二の舞を、する様になるのは知れた事、斯んな亡国的人民を、製造する様な宗教は、飛躍日本の方針と、ちょっと違ってゐはせぬか、斯ういふ所へも其筋や、識者の眼玉を向けられて貰ひ度いので御座るで御座る。

とは言ふものの斯世には、真(マコト)の神様太陽の、如うに光って居らっしゃる。みんな人民は子供じゃで、苦しみ除って与るわいと、それはそれは素晴しい力を今度は観音様が揮ひなさるから有難い。それは何処だと聞く丈け野暮じゃ、それが大日本観音会。自体貧乏は大嫌(オオキラ)ひの、観音様でゐらっしゃる。銭(ゼニ)や食ふのに不自由を、させるなんどと言ふ様な、吝嗇(ケチ)な事など無い事は、実印押して保證する。観音会員になった人は、金はどんどん懐へ、都合好くよく流れ込む。

妙不可思議な観音力、今迄泣いて暮らしてた、家庭も何時か春の如う、豊になれば物事は、何でも彼でも片付いて夫婦喧嘩や啀合(イガミア)ひ、六十米の台風で、ふっ飛ばして了ったやう。みんなの懐暖かに、なるから達磨に足が出来、赤字公債の愚痴などは聞かない様な朗かな、娑婆と相成り満洲の、資源開発易々と、出来るんだから堪まらない、それにはどうも糞の無い、一人も多く観音会へ、入会すればそれでいい、斯んな結構な簡単な、信仰あるのを明烏が阿呆阿呆と呶鳴っては、鼻から提灯ブラ下げて、真暗闇で高鼾(タカイビキ)、グウグウ寝てる人達を覚して上げ度いので御座る。

(光明世界四号 昭和十年七月二十五日)