阿呆文学 枝葉末節文化 其 二

議会が開会毎に、法律といふ七面倒臭い条文が増えて行くんで御座る。此の分で行ったら、昭和五十年頃には、第一万三千八百六十九条の、第千七百二十八項等と言ふ、途轍も御座らぬ、条文も出来るであらふと、大して心配もしないが、と、いってそうならぬとも、限らないと思ふので御座る。

然し、阿呆もそんな先の先迄、苦労をすると、伜に笑はれるかも、知れないので御座る。其処で、世上のお偉ひ方々は、法規愈々密にして、文化愈々進めり、と思召すで御座らうが、其処へ行くと、阿呆の見方はチト違うんで御座る。悪い事をする奴は、法網を潜らふと眼を皿に致して、一寸でも隙があれば、直ぐに潜るんだから、仲々法網といふ檻の製造も、骨が折れるもので御座る。

其処で、此の潜る奴が、増えれば増えるほど、益々条文といふ網の目も、増やさねばならぬ訳なので御座る。年々日比谷で、網の目を製造すると言ふ事は、此の通り年々悪い奴が、増えるので御座るといふ證拠を天下に見せて下さるんで御座るから、洵(マコト)に以て、御苦労千万で御座る。

茲で又、考へ好きの阿呆、一晩とっくり考へたんで御座る。今日の人間はオギャアと生れ、八つになるか、成らない内に、教育修身といふ、結構至極な、悪い奴にならない勉強を、オッ始め、それから、物心が付く頃になると、道徳宗教と言ふ、責道具を以て、思想善導業者が、大童になってのお活動、お上も、無けなしの懐から無理算段してまで、此の思想善導業者を、お助けなさる御苦労、並大抵の事では御座らぬ。

ソコで、どう考へたって、斯う考へたって、悪い事する奴なんか、一匹も出る筈がないと思ふんで御座るが出るんで御座るから、どう考へたって、不思議では御座らぬか。そこで阿呆も、忙しいのに又一晩、考へたんで御座る。すると、頭にピンと来たんで御座る。

何の事、別に不思議は御座らぬ哩(ワイ)。思想善導業者とは、口で喋舌(シャベ)る善導業者で、行で、見せる善導業者ではなかったんで御座る。坊さんは、待合からお寺の本堂へ、酔の醒めた頃を見計らって出掛け、緋の衣を纒って、有難いお説教をなさり、又、文部大臣とかは、何とかの嫌疑で職をお罷(ヤ)めなさり、学校の校長さんや先生は、月給以外の丸いものを欲しがったとかで、市ヶ谷の御別荘へ罷(マカ)り越し、日比谷に集る偉いお方達は待合と高利貸との首引きや、金持の番頭どんなんかで御座る。

大抵のお偉いお方達は、口先で、一生懸命思想善導をなされ、傍(ソバ)から行で、善導破壊をやって御座るのだから、賽の河原で、石を積んでゐるやうなもので御座るから、悪い奴はふえるばかりで、御座るのも致し方が無い事で、御座るといふ事が判ったんで御座る。

議会で、毎年何ケ条の法律は近頃殆んど「適用せぬから廃止すべし」といふ決議が出て、段々、法の条文が減って行く様になるのが、文化が進んだ證拠と、思召して下されば、間違ひないので御座る。で御座るから、法の条文が増える間は、悪人が増えるので御座るから、実以って、危ない次第なので御座る。

中には悪人勢に、捕虜にされた者に、肩書のあるお方もあるのだから、此の神州日本も些か心細いでは御座らぬか。依て、議会で法文の増えるのが、続くやうなら、思想善導業者諸君の方が敗北したので御座るから、いっそ男らしく廃止なされては如何で御座る。

若(モ)しそうなったら、失業善導業者諸君は、早速、此の阿呆の処へ来なさい。諸君の力だけで、今度は、法規減少法を御伝授致すで御座らふ。それ計りでは御座らぬ。そうなれば、松岡どんの政党解消もお仕舞になり、本願寺の大谷どんも、大腕振ってお帰りになられ、総理大臣どんも、弾丸除けの窮屈な、チョッキも召さずに済むし、学校の先生様も、首の心配絶対御無用警視庁に、蜘蛛の巣が張るといふやうな事になるので御座るから、痛快至極では御座らぬか。

但し、チトお気の毒なのは、警官の失業者で御座る。之は、阿呆が一手に引受けて、一生食ふに困らぬやうにして、差上げる心算(ツモリ)で御座るとは、阿呆もなかなか話せるでは御座らぬか。

(光明世界一号 昭和十年二月四日)