斯ういふ事もあった。某大学生に霊の話をした処仲々信じない。「それなら僕に何か憑依霊があるか査べて呉れ。」といふので、早速霊査法に取掛った。間もなく彼は無我に陥り、若い女らしい態度で喋舌り出した。その憑依霊といふのは、当時浅草公園の銘酒屋の女で時たま遊びに来るこの大学生に恋愛し、生霊となって憑依したものである。霊の要求は、「此人はチッとも来て呉れないので、逢ひたくて仕方がないから来るやうに言って欲しい。」と言ふのである。私も生霊とは言ひ乍ら惚れた男の言伝を頼まれたといふ訳で、洵に御苦労千万な次第である。そうして覚醒するや彼は怪訝な顔をしてゐる。私は、『どうでしたか?』--と聞くと、彼「無我に陥ったのか全然判らなかった。」と言ふので、私はその女の話をした処、彼は吃驚して恥しそうに頭掻きかき畏れいって霊の存在を確認したのである。
次に、或所で若い芸者を霊査した事があった。すると旦那の霊が出て来たので、私は種々質問した処、左の如き事情が判った。その生霊は某砂糖問屋の主人で、「今晩此芸者に会ふ約束がしてあった処、拠(ヨンドコ)ろない用が出来、遇ふ事が出来ないから明晩遇ふといふ事を伝えてくれ。」といふのである。その言葉も態度も、先づ四五十歳位の男性の通りであったから疑ふ余地はない。その話をすると、彼女は吃驚した。自分は無我に陥って何を喋舌ったか全然判らなかったので、私の話により、右の生霊の言ふ通りに約束がしてあったといふのであった。
二十歳位某家の令嬢、私の所へ来て訴えるには、「自分は近頃憂欝症に罹ったようで世の中が味気なくて困る。」といふので、私は、「貴女のやうな健康そうで而も十人並以上の美人であり乍ら理屈に合はないではないか、何か余程の原因が無くてはならない。」と種々尋ねた処やっとそれが判った。といふのは近所にゐる或青年が其娘に恋慕し、「手紙や種々の手段で、自分を承知させようとするけれども、私はその青年が嫌ひで何回も断はったところ、その青年は始終私の家の附近に来るので、恐ろしくて滅多に外出も出来ない。」といふ。私は『その男の生霊が貴女に憑くのだ。』といふ事を聞かした為、彼女も成程と納得し、それから漸次快方に向ひ全快したのである。それは病気でないといふ事が判ったので安心したからである。
現代人に死霊の存在を認識させるのさへ余程困難であるが、生霊に到っては猶更困難である。然し疑ふ事の出来ない事実である以上そのつもりで読まれたいのである。生霊に於てはまだ種々の例があるが、右の三霊だけで充分と思ふから後は略すが、生霊は総て男女間の恋愛関係が殆んどである。そうして右の令嬢の憂欝症は如何なる訳かといふと、相手の男が失恋の為の悲観的想念が霊線を通じてその儘令嬢に反映するからである。右の如く生霊は相手の想念が反映する訳である故に、右と反対に両者相愛する場合は相互の霊線が交流し、非常な快感を催すもので、男女間の恋愛が離れ難い関係に陥るのは此快感が大いに手伝うからである。又死霊が憑依する場合は悪寒を催し、生霊が憑依る場合は温熱を感ずるものである。
次に右のやうな他愛もない生霊なら大して問題ではないが恐ろしい生霊もある。それは本妻と妾等の場合や三角関係等で、一人の男を二人の女が相争ふ場合その嫉妬心が生霊となり闘争するのであるが、大抵は妻君の方が勝つものである。その理由は正しい方が勝つのは当然であるからで、その場合妻君の執念によって妾の方は病気に罹るとか死亡するとか、又は情夫を作って逃げるとか結局旦那と離れるようになるものである。
人間の生霊はそれ程でもないが、茲に恐るべきは管狐の生霊である。之は昔から飯綱使ひといひ、女行者が使ふのであって、人に頼まれ、怨みを晴らす等のこと引受けるのであるが、管狐といふのは大きさはメロンの少し小さい位の大きさで、白色の軟毛が密生した頗る軽くフワフワとしたもので、その霊は人間のいふ事をよく聞き、命令すれば如何なる悪事でも敢行するのである。此飯綱使は昔から関西地方に多く、その地方では飯綱使と縁組するなといふそうであるが、之は少し感情を害しでもすると返報返しをされるからである。又狐霊の生霊も多く、肉体だけが稲荷や野原に棲居し、生霊だけが活動するのである。
(自観叢書三 昭和二十四年八月二十五日)