自殺者の無責任

何時の時代でも自殺者が絶えない事は誰も知る処であるが特に近来は多いようである。とすれば文化の進歩は自殺とは関係がない事を知るのである。自殺にもその動機が日本と外国とは余程異うように思う。先ず吾等の観る処では、外国人の自殺者は多く精神的苦悩が原因のようだが日本のそれは別のようである。

というのは、昔の封建時代はお詫びの印とか、殿様に対し一身を犠牲にして諫言の為とか、身の潔白を示す為とかいう崇高なる精神的動機が多かったので、自殺者へ対し一種の尊敬さえ払われたのである。彼の乃木大将の如き自殺の結果神に祀られたというのにみても推して知るべきである。

処が近来は右のような動機は殆んどないといってもいい。つい最近自殺した学生高利貸山崎某なる者の如きは、一時は成功してヤンやと言われたのも束の間で、遂に二進も三進もゆかなくなり、苦境を逃れんが為と謝罪の意味もあろうが、自殺の止むなきに至ったのであろう。然し乍らよく考えてみると、実は無責任極まると言うべきである。

人にサンザ迷惑をかけておき乍ら聊かの償いもせず、彼世へ逃避するのであるから甚だ怪しからん行為といってもいい。本当から言えば身命を賭しても出来るだけ生き長らえて迷惑の幾分なりとも償うべきであるに拘わらずそうしないのは寧ろ卑怯者と言ってもよかろう。

又近来話題に上る文士の自殺の如きも無責任の譏りは免れ得まい。自己の不道徳による苦悩の清算からでもあろうが死によって遺族や関係者に如何に不幸や迷惑を与えるかである。そうして特に言いたい事は此種の自殺者に対し、社会の一部には讃美する者さえみらるるのであるが、この輩は寧ろ一種の罪悪を作るといってもいい。

その證拠には最近自殺した田中英光氏の如きは、太宰氏の墓前に於て自殺したにみても太宰氏の行為に憧れを持ったからであらう。それのみではない、太宰氏が玉川上流に投身した同じ場所で其後数十人に上る追随者が出たのであるから呆れざるを得ないのである。今以て彼の数十年前華厳の滝へ飛込んだ藤村操の跡を追ふものが、絶えないといふ事等も右をよく物語ってゐるのである。

次に、近来の自殺の原因に相当多いとされてゐるヒロポンやアドルムの如き麻薬中毒であるが、之等に対しても大いに反省の要がある。麻薬中毒の最初はただ一服であって、それが将来の生命とりになる事を徹底的に知らしむべきである。最近当局に於てもそれに気が付き禁止の手段に出たが寧ろ遅しといふべきである。

以上自殺行為は無責任極まるものであり、卑怯者であるといふ事を強調し、聊かの讃辞など与えないよう特にジャーナリスト諸君に警告したいのである。本来宗教的からいえば死人に鞭打つ事は宜しくない事ではあるが、今後出るであらう自殺者を未然に防ぐ意味から、敢て自殺の不可を注意したのであるから、死者の霊も又満足すると思ふからである。

(光新聞四十五号 昭和二十五年一月十四日)