本教を認識せよ

世間の評判によれば、本教は頗る多額な収入があり、教祖初め幹部は豪奢な生活をして居るとの事である。これに就てその噂の出所等その真相を発表するのも無駄ではあるまい。

抑々右の如き噂の源はといえば、昨秋当時の新聞を賑はした彼の脱税問題の際、朝日紙が本教資産二、三十億と記いた事や、数ケ月前の文芸春秋に五十五億と出たり、読売紙が一日の収入壱千万円以上などと書いた等本教に関心を持つ限りの人は右記事は見たであらう。それ等が拡がって今日の如き誇大な噂となったのであるから、迷惑するのは本教だけである。というのはそういう記事が表はれるや、其直後から当分ユスリや金貰い連中が何だ彼んだとうるさくタカって来るにみても明かである。

ここで本教の歴史をかいてみるが、昭和十年一月、大日本観音会の名の下に宗教団体として発足したのであるが当時は頗る微々たるもので信者の数も数十人に過ぎなかった。そうしてこれより先昭和元年頃霊的治療の研究を開始し、特殊の療法を創成し、昭和九年五月民間療法的に創めたのが抑々でその翌年一月宗教となり、翌十一年弾圧を受け一年数ケ月浪人生活を続け、昭和十二年秋民間療法専門に再発足したところ、数十人の門弟が出来た為生活の安全を得た事と、当局の取締りがあまりに厳しいので十五年秋廃業する事となった。其後戦争等もあり爾来七年間岡田式浄化療法の名によって技術者養成に専心し、数百人の門弟を造ったのである。

然るに終戦となるや信教の自由が許されたので、廿二年八月宗教法人の許可を受け、此時から表面的宗教活動に移ったのであるから素晴しい発展を遂げたのも僅々二年有余であって、新聞で言うような馬鹿げた収入がある筈がないのである。本教と雖も魔法使でもなければ闇屋でもなく営利事業でもない。収入全部は御利益に対する謝礼と本教事業を支援する意図からの献金であってそれ以外は何にもないのである。而も本教は搾取は絶対にやらない方針で、収入悉くは自発的のもののみである。以上は一点の修飾もなくありのままの事実であるから、新聞や雑誌の記事が如何に誇大的デマであるかは今更言う迄もない。

そうして収入の使途であるが、本教は創業早々の事とて本山というものがない。凡そ如何なる宗教と雖も本山の無いものは一つもない。という事は信仰的機関がなければ、礼拝したり集合したりする宗教活動が出来ないからである。彼のキリスト教に於るカソリックでさえ昔からローマにバチカン宮殿の如き荘麗なものを有っているに見て明かである。従而本教に於ても本山を建造しない訳にはゆかないので、収入の大部分はこれに当てている。熱海、箱根、小田原に於る目下建造中の相当規模のものをみれば直ちに首肯し得るであろう。而も右の外本教位印刷物を多数刊行しているものは外にあるまい。即ち光新聞、雑誌地上天国其他十数種に上る単行本を見れば判るが、右の如き出版事業や、其他各地方に派遣する数千に上る布教師の旅費等を合算すれば実に多額に上るので、本教が急速なる発展時代としてはまたやむを得ないのである。斯様な現状であるから、相当の収入があってもプラスマイナスでいつも不足勝である。昨秋の税金の如きは完納までに如何に全信者が苦心惨澹したかは世間は知る由もないのである。

よく本教に対し疑惑云々と謂はれるが、これ等は何の疑惑かさっぱり判らない。もし金銭上の疑惑とすれば前述の如くであるから一点の不審はあるまい。故に右に従えば神社仏閣の賽銭も既成宗教の収入も全部疑惑をかけなければならない事になる。然し余りに短期間に収入が多いから疑惑があるとすれば実に笑ふに堪えない話である。何となれば右は本教の御利益が如何に卓越してゐるかを見ないからで、実に無責任極まる観方である。それに就てその真相を赤裸々にかいてみよう。

本教が常に言う通り御利益の顕著なる事は宗教史上未だ例があるまい。十数年に渉って治癒しない難病や、医師から死の宣告を受けた絶望的患者が、短期間に起死回生健康を恢復したり、医者と薬から離れられない家庭が、本教入信によって無病家族となる等によって、絶大な感謝感激は安閑としてはおられない。その表はれが献金となるのであるから、お義理やお附合で出すものより、その額も違うのは当然である。

右のような訳で、どうしても世間並より収入は多い事になる。とすれば世間の疑惑なるものはナンセンス以外の何物でもない事にならう。而も治病以外不良児が優良児となり主人の品行が改善し夫婦円満となり、貧乏からも抜け出られ不幸から幸福へ転換し、歓喜の生活者たる実例は枚挙に遑がない。而も日に月に漸増しつつある現況であって、之等多数の生きた事実によってみても如何に社会全般の福祉に貢献しつつあるかは本教に触れるものの何人も礼讃して止まない処である。

又、豪奢な生活云々の如きは、之も馬鹿々々しい話で、顕著な御利益の為金銭以外食料品など余る程寄贈されるので、知らない者からみれば豪奢に見えるのである。

ここで、今一つ言いたい事は、日本人は新しい有能者が出た場合、良い事には眼を蔽い悪い事のみ取上げよってたかって抹殺しようとする悪い癖がある。そういふ人に限って常に何か非難攻撃の材料がないかを注視する。例えば十のものなら正が九で、欠点が一とすれば、その一で九を塗潰し、十全部が欠点ばかりのように宣伝したがる事は人の知る処で新聞のデマ記事などもそれである。

右のような訳であるからこれでは卓越した型破りの人物などは到底出られようがない。全く嫉視羨望によるケチな島国根性の表はれでしかない。聞く所によれば彼の米国などは日本と反対であるそうだ。これはと思う人物が現はれると、それを益々大きくなるように援助を与えるというのだから、同国各界に卓越せる人物が多く出るのは当然であって、それ等の人物によってこそ米国今日の大をなした所以であらう。勿論大人物とは悉く型破りであるから既成の学理や文化の枠には、ハミ出るに決ってゐる。そのハミ出た面を攻撃の材料とするのであるから、日本に大人物が出ないのは当り前である。特に今日の政治家などを見ればよく判る。国会などでも些末な理屈や揚足とりに汲々として肝腎な国民の福利に関する面に至っては甚だ熱が足りないやうである。昔のやうな国会に於ての大演説や名演説など近来殆んど聞かないのもその現はれであらう。

自画自讃ではないが、本教などはよく宗教界の型破りといはれるが、異常の発展もそのためであろう。とすれば先づ本教を検討する場合、何よりも先づ本教出版の全部の印刷物に眼を通す事である。何となれば本教に非難を浴せる人の殆んどは本教の出版物も見ずして新聞のデマ記事や、反対者の偽言、世間の噂等を早呑込みにし、自己判断で是非を云々するのであるから、的外れは当然で、その無責任なる態度は大に反省の要があろう。

(光新聞四十四号 昭和二十五年一月七日)