気狂じみた読売新聞

読売紙が相当以前から、何の怨恨があってか、或は何等かの目的があってか、本教に対し次々馬鹿馬鹿しいデマ記事を掲載し、相当紙面を塞げてゐるが、洵に不可解といふべきである。再三再四の挑戦に対し、相手にはなりたくないが、ともかく大新聞といはれてゐる読売紙の記事である以上、社会人心を誤まらせる点も相当あるから、止むなく応戦せざるを得ないのである。

それも幾分の根拠があり、信を措く程の記事なら相手になっても張合があるが殆んど地方のゴロツキ新聞並みの悪意に満ちたデマ記事であるから、余り気は乗らないのである。別項の如く本教の抗議文と熱海市長宗秋月氏の抗議文とそれに対する読売紙の謝罪状とをみれば真相は明かである。とすれば一体全体読売紙が本教に対し事実を捏造してまで執拗に品位に拘はるやうな下劣な記事を出すといふ事は到底常識では判断出来ない。忌憚なくいえば精神病者といふより外に言いようがないのである。

そうして最も驚いてゐる事は、読売紙の如き大新聞が右のような暴露雑誌的記事を何の反省もなく何回も続けるという事は恐らく文明国には例のない事であらう。本教に於てもそのような悪徳者を相手に戦ふのは実に好ましくはないが、このまま黙す事は第三者が見た場合大新聞の記事である以上或程度の疑惑を起すかもしれない懸念があるからである。しかも昨今、この問題は相当社会に喧伝されて来た事によってもこのまま済ます訳にはゆかないのである。

宗教本来の目的は社会全般を善化し、人心を安定させ大多数の福祉を増進させる事である。然るにそれを妨害する行為を恬然として行ふジャーナリストの存在は許すべからざるものがある。しかも新聞の使命たるや今更言ふまでもないが直接民衆をリードすべき重大なる責任を有している以上、社会も特権を許容し、相当の尊敬さへ払ってゐるのである。然るにその特権を自己の私利や感情に利用し、小説にも等しきデマ記事を捏造し、良民に被害を与えるといふ暴君的行為者が日本人中の指導階級に存在してゐる事は慨歎に堪えないのである。

前述の如く社会善化の目的に反する邪悪的行為者の横暴に善良者が屈服するとすれば、社会悪は益々増長する事になろう。とすれば小なりと雖も正義に立脚してゐる吾等としては決して邪悪に屈服する事は出来得ない。故に読売紙が飽迄挑戦を続ければ本教に於ても飽迄応戦すべき決心である。それによって新聞悪を匡正(キョウセイ)する一助ともなれば向後善良なる人民は如何に幸福を得らるるかを期待して奮進するのである。

(光新聞四十二号 昭和二十四年十二月三十一日)