祖霊と死後の準備

抑々死に際し霊体離脱の状態は如何といふに、之に就て或看護婦が霊視した手記が相当よく書いてあるから記してみよう。之は西洋の例であるが人によって霊の見える人が西洋にも日本にも偶々あるのである。

私は悉しい事は忘れたが、要点だけは覚えてゐるがそれは斯うである。「私は或時、今や死に垂んとする病人を凝視してゐると、額の辺から一条の白色の霧の様なものが立昇り、空間に緩やかに拡がりゆくのである。そうする裡に、雲烟の如き一つの大きな不規則な塊のやうなものになったかと思ふと、間もなく而も徐々として人体の形状の如くなり、数分後には全く生前そのままの姿となって空間に起ち、凝っと自己の死骸を見詰めて居り、死体に取ついて悲歎にくれてゐる近親者に対し、自分の存在を知らしたいような風に見えたが、何しろ幽冥所を異にしてゐるので諦めたか、暫くして向直り窓の方に進んでゆき、いとも軽げに外へ出て行った」といふのであるが、之は全く死の刹那をよく表はしてゐる。

右手記は一般人の生から死への転機の状態であるが、西洋の霊界は平面的であり、東洋の霊界は立体的である。之は日本は八百万の神があり、大中小上中下の神社があり、社格も官幣、中幣、県社、郷社、村社等、種々あるによってみても如何に階級的であるかが知らるゝのである。之に反し西洋はキリスト教一種といっても可いのであるから、全く経と緯の相違である事は明かである。故に前者は多神教で後者は一神教といふのである。

次に人の死するや、仏教に於ては四十九日、神道に於ては五十日祭を以って一時打切りにするが、それはその日を限りとして霊界へ復帰するのである。それ迄霊は仏教にては白木の位牌、神道にては麻で造った人形の形をした神籬(ヒモロギ)といふものに憑依してゐるのである。茲で注意すべきは、死者に対し悲しみの余りなかなか忘れ得ないのが一般の人情であるが之は考へものである。何故なればよく謂ふ“往く所へ往けない”とか“浮ばれない”とかいふのは、遺族の執念が死霊に対し引止めるからである。故に先づ百ケ日位過ぎた後は成可忘れるやうに努むべきで、写真なども百ケ日位まで安置し、其後一旦撤去した方がよく、悲しみや執着を忘れるようになった頃又掛ければ可いのである。

次に仏壇の意義を概略説明するが、仏壇の中は極楽浄土の型であって、それへ祖霊をお迎へするのである。極楽浄土は百花爛漫として香気漂ひ、常に音楽を奏し飲食裕かに諸霊は歓喜の生活をしてゐる。それを現界に映し華を上げ、線香を焚き、飲食を饌供するのである。又鐘は二つ叩けばよく、之は霊界に於る祖霊に対し合図の意味である。之を耳にした多数の祖霊は一瞬にして仏壇の中へ集合する。然し此事は何十何百といふ祖霊であるから、小さな仏壇の中へ如何にして併列するか不思議に思ふであらうが、実は霊なるものは伸縮自在にして、仏壇等に集合する際は其場所に相応するだけの小さな形となるので、何段もの段階があって、それに上中下の霊格の儘整然と順序正しく居並び、人間の礼拝に対しては諸霊も恭しく会釈さるゝのである。そうして飲食の際は祖霊はそのものゝ霊を吸収するのである。然し霊の食料は非常に少く、仏壇に上げただけで余る事があるから、余った飲食は地獄の餓鬼の霊に施すので、その徳によって祖霊は向上さるゝのである。故に仏壇へは出来るだけ、平常と雖も初物、珍らしき物、美味と思ふものを一番先に饌供すべきで昔から孝行をしたい時には親はなしといふ諺があるが、そんな事は決してない。寧ろ死後の霊的孝養を尽す事こそ大きな孝行となるのである。勿論墓参法事等も祖霊は頗る喜ばれるから、遺族又は知人等も出来るだけ供養をなすべきで、之によって霊は向上し、地獄から脱出する時期が促進さるゝのである。世間よく仏壇を設置するのは長男だけで、次男以下は必要はないとしてあるが、之は大きな誤りである。何となれば両親が生きてゐるとして、長男だけが好遇し、次男以下は冷遇又は寄付けさせないとしたら、大なる親不幸となるではないか。そういふ場合霊界にをられる両親は気づかせようとして種々の方法をとるのである。その為に病人が出来るといふ事もあるから注意すべきである。

今一つ注意すべきは改宗の場合である。それは神道の何々教に祀り替えたり、宗教によっては仏壇を撤去する事があるが、之等も大いなる誤りである、改宗する場合と雖も、祖霊は直ちに新しき宗教に簡単に入信するものではない。恰度生きた人間の場合家族の一員が改宗しても他の家族悉くが直ちに共鳴するものではないと同様である。此為祖霊の中では立腹さるゝものもある。叱責の為種々の御気附けをされる事もある。それが病気災難等となるから、此一文を読む人によっては思ひ当る節がある筈である。

茲で霊界に於る団体の事をかいてみよう。霊界も現界と等しく各宗各派大中小の団体に分れてゐる。仏教五十数派、教派神道十三派及び神社神道、キリスト教数派等々それぞれ現界と等しく集団生活があって死後、霊は所属すべき団体に入るがそれは生前信者であった団体に帰属するのである。然るに生前何等信仰のなかった者は所属すべき団体がないから、無宿者となって大いに困却する訳であるから生前信頼すべき集団に所属し、死後の準備をなしおくべきである。

之に就て斯ういふ話がある。以前某所で交霊研究会があった際、某霊媒に徳富蘆花氏の霊が憑った。そこで真偽を確める為蘆花夫人を招き鑑定させた処、慥かに亡夫に違ひないとの證言であった。其際種々の問答を試みた処、蘆花氏の霊は殆んど痴呆症の如く小児程度の智能で、立合ったものは其意外に驚いたのである。それは如何なる訳かといふと、生前に於て死後を否定し信仰がなかったからで、生前トルストイの人道主義に私淑し、人間としては尊敬すべき人であったに拘はらず右の如きは全く霊界の存在を信じなかったからである。

(自観叢書三 昭和二十四年八月二十五日)