新聞は何故宗教を愚弄するか

吾等の常に不可解と思ふ事は、日本の大新聞と雖も、新宗教を扱ふ場合、決して真面目な態度で記事をかかない。必ずといひたい程愚弄的筆致を揮ふ。彼等は新宗教とさえいえば、軽蔑視する傾向がある。

処が既成宗教に対しては些かもそういう態度は見出せない。とすれば一言にしていえば、古いものはみんな良い、新しいものはみんな悪いという頭脳の単純さである。本当からいえば、古い新しいの差別はつけず、善いものは善とし、悪いものは悪いとする事こそ公正なる批判であって、そうする事が新聞としての正しい観方であらう。

それには勿論充分調査の必要があるにも拘はらず、碌々調査もせず世間の噂や、聞き噛り、反対者のデマ等に乗り曲筆し舞文するのであるから吾等は常に被害者である。尤も時事問題とか特ダネ等の時を争ふ問題ならば、調査の余裕がないから、或程度の拙速はやむを得ないとするも、宗教問題は、それと同一視すべきではない。調査の余裕もあり、資料も豊富である以上、前述の如き行為は看過出来ないものがある。

処が茲に問題があるのは、世間の噂処ではない。今回の読売紙の場合の如く為にするものの計画的謀略に踊らされ興味本位に作り、読者を面白がらせるといふ行為は、新聞の商業主義と其記者の功績を挙げんが為に良民が犠牲にされる事である。斯のやうな態度は新聞の使命を没却するばかりか、社会悪助長の結果となり遺憾極まる行為である。茲に吾等は事実によって社会に其是非を問ふのである。

(光新聞三十三号 昭和二十四年十月二十九日)