新宗教と新聞記事

本教が近来、善悪共に社会各層の話題に上ってゐる事は大抵の人は知ってゐるであらう。それに就て日本全国の新聞に本教の記事が殆んど見ない日はないといってもいい。そんな訳で時々大中小の新聞記者が面会を求め話を聞きたいといってくる。最初の中は私も経験がない為記者の良心を信じ、正直に宗教上の事など話をし、その後の新聞をみると記事の意外なるに驚くのである。

というのは私が社会へ知ってもらいたいと思うような肝腎な事は殆んど抹殺されてをり、どうでもいいような話を反って華々しくかいてあるばかりか、全体を通じて揶揄的嘲弄的の筆が多すぎる。最初訪ねて来た時には、宗教上の御意見とか現社会に対する御感想などと、至極尤もらしい事をいって話を釣り出し、中には決して嘘を書かないなどと言ひ乍ら、事実は右の如くであるから呆れざるを得ないのである。

処が、政治家とか名士又は既成宗教家の話になると至極真面目にかくのであるが、独り新宗教となると、一種軽侮の眼を通して見た筆致である。という事は何が為であろうかという事であるが、其原因に就て吾等は斯う想うのである。それは大部分のジャーナリストは、唯物主義思想になり切ってゐる為、吾等が鼓吹する唯心思想即ち眼に見えざる神の存在を力説せるに対しては、一種の思想的反感を持つ。随而、彼等が抱ける牢固たる唯物思想は、唯心思想を迷信と思ひ込み、排撃するのを可とする。それが一般人を救ふ正しい道と思ひ、迷信に引っかからないように警告を与えるつもりである。

処が、吾等の方は唯物思想こそ、一種の迷信であって、社会悪発生の根源であるから、之を打破し大いに唯心思想を吹き込まなければ世の中は良くならないという観念であるから、そこに甚だしいギャップが生れる。右の如き唯物的精神が心中に含まれてゐる以上、どうしても記事に表はれるので、記事の随所に反感気分が溢れてゐるに見ても明かである。私が多くの新聞人と談話を交換する場合、彼等の思想内容があまりに唯物的で、唯心観の全然皆無という点についも失望を感ずるのである。

以上の意味に於て、今後は真面目にかく記者以外は面会しない事に決めたのであるから記者諸君はそのつもりにされたいのである。然し強いて質問応答や感想などを求めたい場合は文書によって伝えられたい。そうすれば当方でも文書でお応えする。折角遠方からお出でになっても無駄をかけては相済まぬから右のようにした訳で、よく了解されたいのである。

(光新聞三十三号 昭和二十四年十月二十九日)