読売紙の挑戦に応う

最近何が為であるか、読売紙は地方版も合せて荐りに本教に向って挑戦してくる、それ程読売紙の如き大新聞が本教に関心を払い、目標としている事は内容の如何に拘はらず兎に角本教としては名誉の至りである。

昔から「出る釘は打たれる」「大木になると風当りが強い」という事はよく聞いているが、あまり風当りが強いと木の根を損ねる危険があるから、或程度の防風林か防風垣を作らない訳にはゆくまい。

処が、人によってそういう行り方は反って逆効果になる懼れがある。大新聞に睨まれると、将来どんなシッペイ返しを食うかも知れないから、此際泣寝入をした方が得策であると、頻りに進言する者もある。吾等も一応それを尤もとは思うが、飜ってよく考える時斯ういう事になろう。

強権者が権力を揮って弱者に被害を与える場合、弱者は後難を恐れて泣寝入に終るとすれば、権力者は益々増長して良民を虐げる結果となり、正直者が馬鹿をみると同様、良民はいつも苦しむという不合理が絶えない事になる。故に之等の社会悪を矯正するには誰かが敢然と起って強者に向い、正義擁護の為闘うべきであると思うのである。

吾等は生れたての新宗教として甚だ微弱であり、読売紙からみれば蟷螂の斧にも当らないであらうが、正義を守る上に於ては何人にも勝るとも劣らないつもりである。何故なれば吾等の真の目的は、邪悪の充満してゐる現社会に向って善を拡充し悪を縮減せしめ、終局に於て悪に代って善の世界たらしめ、その結果として人類の苦悩は滅減し、恒久的平和を楽しむ世界を期待するからである。

勿論、人間的に考えればそんな途方もない事業は、困難処か実現の可能性はないというであらうが、それも無理はない。然し実は人間の力でやるのではない。時期到来によって天地経綸の神が、人類史上類例のない救世の大神力を揮はれる事で、それを徹底的に知った吾等である以上、実現の可能性を確信するのである。吾等が唱ふる病貧争絶無の地上天国実現とは之を言ふのである。

(光新聞三十二号 昭和二十四年十月二十二日)