新聞恐怖時代

吾々は人類救済の聖業に日夜奮励努力しつつあり、死に直面したものを蘇えらせ、絶望者に光明を与え、不幸に沈淪するものを歓喜の境地に転換させる等々、各地からの感謝に溢れた報告は無数に集り、此地獄的世相の明朗化に少なからず役立ちつつある事実は本教の発展振がよく物語っている。

随而、全国各地の新聞に本教に関する記事の載っていない日はない位であり、それの報告も各地から集ってくるがどれもこれも真実に触れたものはない。悉くがデマである。而もその土地の信者の報告によるも記事の出処は本教の発展に影響を受ける者や何等か為にする者の策動による事が多く、その点も記事によく表はれている。昔からいう釈迦に提婆で、此提婆の行為である事は一点の疑いはない、二千六百年以前釈尊の時代なら兎に角、二十世紀の文化時代未だ提婆が活躍しているとは余りに時代錯誤である。

勿論、彼等は見えざるものを信じない唯物観念がそうするので、人間の作った法にさえ触れなければ何をしてもいい。神の造った法律などは眼に見えないから在り得る筈がないといふ観念からである事は勿論である。とすれば、彼等とても済度すべき必要を痛感せざるを得ないのである。

以上の如くであるから、本教の全国に散在する信徒約廿万は常に何よりも新聞を恐怖している。勿論、無責任な記事によって、本教を迷信邪教となし触るる事を危険と思はしむる結果、その影響は地方としては小区域の関係上非常な悪影響を蒙るからである。

従而救はるべきものも救はれないで不幸に終る事実も少なからずあるのである。之によってみるも彼等の罪悪は許すべからざるものがある。吾等は終戦後民主政治となったお蔭で自由な明るい社会に生き、マ元帥に感謝の気持で一杯であるが、その気持を常に脅かし暗くするものは新聞であるから標題の如き新聞恐怖時代としたので、以上によって了解されるであらう。

(光新聞三十二号 昭和二十四年十月二十二日)