菊五郎丈の死

菊五郎の死を聞いて随分がっかりした者もあろう、私もその一人である。之に就て想出すのは丈は数年前、私の弟子の浄霊を受けて持病が大分快くなったので教修も受けたいというのである。処が困った事には大先生直接でなくては嫌だというので、私としても直接教修はしない事になっていたから、止むなく断った。其事を或人に話した処「同優の性格らしい」と言い、人並外れた気位が高いからとの事であったが、そのような性格であったからこそ、アレ丈の名優になったのであろう。

右のような訳で、とうとう機会を失して了った事は実に惜しいものであった。もし其時教修を受けたとしたら、未だ死ぬような事はなかったであろう。処が同優は非常に注射が好きで、最近は自分で毎日何本となく注射を打ってゐたそうで、私は危い事と思って人にも話した事もある。死因は勿論注射過度の為であったのは争えない事実だ。

聞く所によれば、目下改造中の歌舞伎座は来年秋出来上る予定だそうで、華々しい初演劇の呼物は勿論同優を主とした物である事に決っていたそうだから、大谷氏始め関係者の落胆はさこそと察せられるのである。

斯ういう事を懐い出した。今から約十数年以前大谷氏夫人から私は病気治療を頼まれた。其時注射をしてゐるという事を聞いたので、「注射と神霊治療とは矛盾するから、両方では効果がない、注射をやめたらやって上げる」と言った処、同夫人が言うには、「注射をしないと気分が引立たず、主人が帰宅しても口を利く元気も出ないので、注射は絶対やめられない」というので、止むなくそのままになってしまった。之は全く注射中毒になって了ったのでどうしようもなかった。其後暫くして死んだという事を聞いた。

近頃のように、主なる俳優が次々死んでゆくのはどうした事であろうか-と心ある者は疑わずにはおられまい。実に梨園は益々淋しくなるばかりだ。六代目が亡く吉右衛門亦病弱であるとしたら、歌舞伎は一体どうなるであろうか。そうでなくてさえ歌舞伎の将来に対し楽悲両様の見解が紛紛としている今日肝腎の名優がないとしたら、若手ばかりでよく持ちこたえるかを考える時、実に寒心に堪えないものがある。

茲で序でだから今一つ世人の不可解としている点をかいてみよう。それは女形俳優の若手である。之は誰も知っている事であるが、之に就て以前私は当時有名な女形市川松蔦丈の治療を頼まれた事がある。診ると頸から肩へかけて非常に凝っている。そこで気がついた事は常に重い鬘(カツラ)をかぶる為右の如く凝るのである。その凝りの浄化作用発生によって熱が出易い、勿論咳も痰も伴うから医師は結核と診断する。それが死因となって夭折するという事を知った訳であるが、この解決こそ本教浄霊を措いて外にないであろう。

最後に、丈の芸に就て私は一言挿みたいが、同丈がとも角当代歌舞伎劇の第一人者として王座を占めていた事は誰も許す処であるが、その理由としては丈が他の追従を許さない舞踊と、歌舞伎の型を破った点にあった事は勿論である。この型破り的芸風は九代目団十郎の影響であった事は否めない処で、それではどの点かというと全く見物に迎合しないという点であろう。

私は廿歳頃、団十郎の芸風が実に好きで度々見物に行ったものであった。団十郎に就ては自観随談中に詳しくかくつもりであるから、茲ではただ一つ二つだけに止めるがそれは前記の如く彼は決して見物に迎合しなかった。否迎合する事は芸の堕落とさえ思っていたらしかった。

斯ういう話がある。それは見物が喝采する場面があると翌日は替えてしまう。彼はその理由として「喝采するのは芸に隙があるからだ、芸が極致に達すると喝采など忘れてしまう」と言ったそうである。又彼は「俺は大衆に認められるよりも、一人の識者に認められゝばいい」と言ったそうで、その識見の高い点において実に稀世の芸術家であった。

故に彼の舞台は他の俳優の如く技巧は少しもない。動きがなくただ眼の表情によってのみ実感を表わすだけで、それですばらしい迫力を感じた。全く吾々からいえば、眼に見えない霊の力である。それに引換え現在の芸能人が見物に媚びる事のみに汲々たる様はその低劣さに顰蹙(ヒンシュク)すると共に、団十郎を懐い出さずには居れないのである。

話は飛んだ横道に外れたが菊五郎丈の技芸は、全く団十郎の感化であった事はもち論で、この一文を私は丈の霊に手向けとしたいのである。

(光新聞二十一号 昭和二十四年八月六日)