内臓の三位一体と浄霊

抑々、人間生活上体内の最も重要機能としては心臓、肺臓、胃の腑の三者であらう。此事こそ私が常に唱ふる火水土の三大原素から成立ってをり、右の三機能の活動に就て茲に説いてみよう。

それは斯うである。即ち火は心臓で水は肺臓で、土は胃の腑に当るといふ事である。何となれば心臓は火素を吸収し、肺臓は水素を吸収し、胃は土素を吸収すく機能であるからである。然し乍ら之に就ての今日迄の医学の説明は寔に不徹底であった。その言ふ処は濁った血液は肺臓が吸収する酸素によって浄められるといふのであるが、それだけでは本質に触れていない事は勿論で、之を私は神示の医学によって解説してみるが、それには先づ霊界の真相から説き起さなくてはならない。

抑々、霊界とは人間の五感に触れない無に等しき存在であるが、実は之こそ万有の根源であって、此事を知らなくては真相の把握は不可能である。

火は水によって燃え、水は火によって流動するという原理は再三私は唱えて来たが、此原理こそ万有解決の鍵である。故に不可視の存在である処の霊界を識る前提として先づ空気界から説いてみるが、今日科学によって唱えらるる酸素とは火精であり、水素とは水精であり、窒素とは土精であり、之が三位一体で、此三原素こそ一切万有の本質である。

極端な暑熱も極端な寒冷も中和の気候も、生物の生存に適合しているという訳は、神秘極まる三原素の活力によるのである。仮に此地球から水素を無にすれば一瞬にして爆発し火素を無にすれば一瞬にして氷結し、土素を無にすれば一瞬にして崩壊し零となる、之が真理である。此理を考える時、初めに説いた心臓、肺臓、胃の三機能の基本的意味が判る筈である。即ち心臓は霊界から火素を吸収する、その作用が鼓動である。肺臓は同じく水素を吸収する、その作用が呼吸である。胃は現界から土素を吸収する、その作用が食物の嚥下である。此理を一層徹底してみよう。

凡ゆる病原である固結毒素溶解には熱を必要とする。それが浄化作用の第一活動で、浄化作用が病気症状でありとすれば、病気の際の高熱は固結毒素溶解には多量の熱を要するからで、其際熱を吸収する為に頻繁なる鼓動が発る。又悪寒は患部に熱が集注する為他部は一時的減熱する。又それと同様呼吸が頻繁なのは心臓の活動を促進する為と乾燥を防ぐ為、肺臓は水素を多量に吸収するからである。

そうして火素の根源は勿論太陽が放射する精気であり、水素のそれは月が放射する精気であり、土素のそれは大地が放射する精気である。

然し乍ら、右三者の主位は勿論心臓であって、心臓が肺臓を動かし、肺臓が胃を動かすのである。此理は胃に食物が不足しても直ちに生命の危険はないが、肺臓はそうはゆかないといって一二分の生命は持続出来るが、心臓に至っては数秒以上は不可能である。医学に於ても死の場合、肺臓や胃の腑の事は言はない、必ず心臓麻痺というにみても明かである。

そうして人間死するや、先づ心臓の活動が停止するやそれまで人体に充実した霊即ち火素が脱出し無熱となる。勿論之は霊界に帰属するからであり、肺臓は呼吸が止るやそれまで体内に充満していた水素は空気界に帰属し乾燥が始まる。胃も勿論活動停止によって飲食は不可能となり、身体の硬化作用が始まる。之等によってみても前述の説を裏書している。

以上の如く、火水土の三位一体の本質によって構成された人体である以上その病患を治癒するとしたら、その方法も三位一体の力に依らなければ合理的ではない筈である。之が本教浄霊の原理であって、それを説明してみよう。

本教浄霊は観音力に依るとされている。観音力とは勿論菩薩から伝達される処の光である。然し之は霊的光であって、人間の眼には見えないが、眼に見える処の太陽・電燈・燈火等の光は光の体であるのである。そうして光の本質とはいう迄もなく火と水の密合であって、即ち火素と水素から成立っており、火素の多量であればある程光は力が加わるのである。然るに火と水だけの光の力だけでは不充分で、ここに土精を要する。土精が加わる事によって完全な三位一体的力の発揮となるから素晴しい治病力となり、その光波が人体を透過し、霊の汚濁は消滅され、それが体に移写して治病効果を奏するのである。

右の具体的方法としては、私の常に説く如く「光」の大文字を書いた紙を畳んで懐へ入れさせる。光の文字には私の腕を通し、筆を通して、文字へ光波の精が滲透凝集する。(之は説明に困難だから仮に凝集の文字を用ゆ)そうしてその光の文字と、私の体内にある光の本元とが、霊線によって連係しており、絶えず光波を供給している。勿論私と観世音菩薩との霊線活動も同様であって、勿論人類救済の為の光波を無限に伝達され給うのである。

以上の如く三位一体となって構成された人体である以上、三位一体の力による治病法こそ真理そのものであるといえよう。全く空前の治病力を発揮し得らるるのは当然というべきである。以上の原理の説明は非常に困難ではあるが、大体右によって或程度の概念を得たであろうと信ずるのである。

(光新聞二十一号 昭和二十四年八月六日)