お蔭話を読んで

本教発行の光新聞並びに雑誌地上天国には満載し切れない程のお蔭話があり、すでに発表したものは今日迄数百に上っており、今も毎日続々と報告してくる。一々読む毎にその感謝感激の溢るる心情には泪なきを得ないのである。之程大きな救いは曽てなかったであろう事は何人も同感であろう。

然し、之に就て由々しき大問題を発見するのである。それは罹病の場合、例外なく最初は医師にかかるのである。処が医療を受ければ受ける程、漸次悪化するという実例はあまりにも多い事である。もし此おかげ話を専門家が見たとしたら、如何なる感想が浮ぶであろうか。恐らく医学そのものに対し疑念を起さない訳にはゆかないであろうと共に、本教浄霊法に最大なる関心を起さない訳にはゆかないはずである。何となれば、現代医学との優劣に余りの隔りがあるからであると共に、医学の根本に一大欠陥のある事に気付かなければならないからである。

私が二十数年間、此医学の誤謬に就て著書や言説に発表したのであるが、如何せん著書は発禁され、言語の宣伝は医師法違反や、医療妨害といふ鉄のカーテンに妨げられ、充分意を達する事は出来得なかったのである。もし法規に触れるとすれば人類救済の事業は一頓挫しなければならないからである。とすれば人類の不幸の救済はそれだけ遅延することにならう。

ここにヂレンマが生ずる。そこでどうしても沈黙第一主義とし、実地の成果を以て救ひの業を遂行しなければ余儀ない事になる。然るに右の手段による成果に対しても、非難は絶ゆる事なく、パリサイ人共は虚偽や捏造記事を言論機関に掲載したり、官憲を動かそうとして凡ゆる手段を講じようとする。

又、或者は迷信邪教の名の下に抹殺しようとする者もある。

そうしておかげ話のその殆んどは最初から本教に病気を治しに来るものは一人もない。サンザ医療やその他の療法によって、あらん限りの手段を尽したに拘わらず、漸次悪化し、進退谷まり絶望の極本教の話を聞くが、初めは大いに疑ってかかる事は例外はない。

併しそれも無理はない。それまで凡ゆる療法に懲りぬいた揚句であるから、やはり今迄のものと同様に思い、殆んど治る期待などを持たず、藁をも掴む心境で、渋々浄霊を受けるのである。処が一度浄霊を受けるや、その効果の顕著なるに驚歎し、戸惑いする位である。その歓喜たるや、実に言葉に言い表わせないとは、異口同音にいうところである。

吾々は常に思う。此おかげばなしを読んで尚疑念が去らないとすれば、その人は普通ではなく、精神変質者とみるより外評しようがないであろう。もし未だ疑いの解けやらぬ人がありとすれば、宜しく本人を訪ね、直接聞くのが何よりである。又吾々は決して信仰を勧めはしない。ただ事実は事実として誤りなく認識してもらえばそれでいいのである。

(光新聞十六号 昭和二十四年七月二日)