今日迄世に表はれた処の数多い所説は、例外なく宗教と科学は一致し難いものとされてゐた。処が私の言はんとするのは、宗教と科学は決して別個のものではなく、同一の線を歩むべきもので、将来或時期に到れば必ず一致すべき事を信ずるのである。然らばその一致点は何処にあるかを解説してみよう。
現在の科学を端的に言えば顕微鏡科学といって可い。顕微鏡による細菌や微粒子の発見が基礎となって、今日の隆盛をみるに至った事は言ふ迄もない。然し現在顕微鏡で見得る程度としては普通三千倍から二万倍、最近の原子顕微鏡に於ては十万倍にも達するそうである。何れは百万倍にも達する事も、そう遠い将来ではあるまい。
以上のような顕微鏡科学の驚くべき進歩は何を物語ってゐるのであらうか。勿論神霊と科学の一致点に向って、進行の度を進めつつある事は勿論である。茲で先づ、人間生命の問題をとり上げて神霊と科学の実態を解説してみよう。
抑々現代医学が進歩を云々しながら、其効果に至っては首肯し難いものがある。彼の肺炎が五十年以前一週間を要して治ったものが今も一週間かからなければ治らない事や、如何程研究努力を払っても、結核は今以て謎とされてゐる事や、最も簡単な感冒の病因すら未だ発見されていないといふに至っては、他は推して知るべきであらう。之等によってみても、現在医科学の水準は、世人の期待程でない事は余りにも明かである。
現代医学によれば凡ゆる病原は、殆んど細菌とされてゐる。細菌さえ殺滅すれば病患は解決すべきものとなし、盛んに殺菌研究に専念するのみで、他を顧みようともしないのである。之が抑々一大誤謬である事を私は指摘すると共に、その根源にメスを入れてみよう。
以上の如き殺菌手段は何等意味をなさないといふ事は、彼の結核患者が保有してゐる何万何億か知れない細菌を一匹残らず殺滅する事は到底不可能であるからである。それは今最も進歩せる服用剤や注射薬を用ゐるとして結核菌の密集地帯である病竃部(ビョウソウブ)まで薬力そのまゝで滲透し達する筈がない。如何に殺菌力ある服用剤と雖も胃中に入るや、胃液の為に中和され、病竃部に達するまでには、殺菌力は相当減少すべきは常識でも考えらるるのであると同様注射薬にしても一度血管に入るや之亦殺菌力の中和は勿論である。さらばといって胃液や血液の作用に抵抗し得る程の強力殺菌剤を用ふるとすれば、生命に関する程の危険があらう。所謂角を矯めて牛を殺す事になる。此理に由って結核に対する殺菌療法は永久に成功しない事は断言して憚らないのである。何よりの證左は結核に関する新薬、特効薬が絶えず表はれては消え、現はれては消え今以て決定版が出ないといふ事はそれをいかんなく物語ってゐると言っていい。
結核殺菌法の無価値は、前述の如くであるとすればどうしても別方面に研究の重点を置き替へなければならないに係はらず、今以てそれに目覚めないのは如何なる理由によるのであらうか。之は全く細菌医学の余りにも捉はれすぎた結果ではあるまいか。故に現在医学に於ける結核研究は何等意味ない徒労以外の何物でもないと言へよう。
そうして医学が細菌を恐れるといふ事は、細菌そのものよりも、細菌の繁殖そのものを恐れるのである。何となれば仮令細菌が肺胞の粘膜に附着しても、繁殖しなければ病気は発生しないからである。之を判り易くする為結核患者を三種類に分けてみよう。即ち第一は細菌繁殖によって発病増悪するもの、第二は一度病気発生しても知らぬ間に治癒するもの(之が一番多い事は医学も言ってゐる)第三は菌が侵入しても全然発病しないものとである。之等三者はいふまでもなく、第一は抵抗力薄弱の為であり、第二は相当の抵抗力があるので或程度で繁殖力を喰止め得る、第三は抵抗力強盛の為、菌は速かに死滅する等で、此事は医家もよく知ってゐる処である。之によってみれば第三である、細菌を死菌させる程の抵抗力を有する健康体たらしめればいいのである。之が結核問題解決の根本で、之以外決して問題解決の鍵はないのである。
以上は医学に於ても気のつかない筈はないであらうが、仮令気がついても第三の健康体にする方法は、今日の医学では至難である。丁度、弱小国が敵の侵入を恐るるのと同様でそれは敵以上の軍備が充実してゐれば、何等恐るる処はないのと同様である。
以上の如く医学が第三健康にする事が不可能であるのはどういう訳かといふと、健康そのものの原理が未だ不明であるからで、顕微鏡科学がそこまで進歩してゐない為である。即ち今日の科学で知り得る細菌は、実は細菌ではなく巨菌といっていい位のもので、今日顕微鏡で見えない細菌を濾過性といってゐるが、此濾過性よりも何百万倍否何千万倍位極微なる神霊微粒子の存在が明かになってゐないからで、将来顕微鏡科学が進歩の極に達した時初めてこの神霊微粒子を発見さるるので、是に到って初めて宗教と科学の一致が如実に実現さるるのである。然るに吾々が日々驚異的効果を挙げつつある神霊療法によれば、第三者的健康法たらしむる事は敢て難事ではなく、現在実際に造られつつある事実である。従而吾々には結核などは問題ではないといふ事は感染の危険が更にないからである。故に吾々の手によって日本から結核を追放してしまうといふ宣言も些かの誇張もない訳である。
茲で、神霊微粒子に就て解説してみるが、此微粒子を説明するには相反す二種の、原素を知る必要がある、即ち悪と善であり、暗と光であり、水と火であり、凝と解である。此凝が毒素であってそれを解の力によって溶解排除させる。吾々が常にいふ処の火素の活動で、之を浄霊法ともいふのである。此浄霊によって濁血者は浄血者となり、浄血者となれば、第三健康者となるのであるから、此原理を知り、実行に表はす事によって人類から病気を完全に除去する事が可能であるに於て、茲に初めて病なき世界が実現するのである。
以上の理によって忌憚なく言えば、わが神霊療法の原理は、現代医学の在り処からは実に千里の先に進んでゐると言ってもいい。何れは現代医学も吾々の位置にまで到達する事は予想され得ると共に我神霊療法は一世紀先の科学といっても決して過言ではない、従而吾々には研究の言葉はない。その必要がないからである。医療で不可能とされた難病重患が、続々快癒する事実をみて何人も奇蹟といふが、実は奇蹟でも何でもなく、治癒すべき原理によって治癒したまでである。
本来科学とは一切の真理を探究し、人類の福祉を増進すべき学問であって、如何に尤もらしい理論を説くと雖も実効を現はさない限り、それは科学とは言へないであらう。
吾々が常に感ずる事は、病者が医家に病原を質問する場合、納得のゆく説明はなし得ないやうである。吾々が新聞雑誌ラジオ等で病菌に対する質問応答をきくが、その殆んどは曖昧模糊として、お座なり的で、病者の安心のゆくような、適確な解答は与えられないのである。徹頭徹尾消極的で、ただ大事をとれといふに過ぎない。結局専門家に診てもらえといふ逃口上で終ってゐる。処が、事実質問者の多くはサンザ専門家にかかって治癒しないから質くのであるから、右の答を聞いて失望しない者は幾人あるであらう。
私は前述の如く、随分突込んで説いたが、決して医学を非難せんが為の非難では毫もない、止むに止まれぬ人類愛的精神の発露からである以上、大乗的見地に立って観られん事をである。私が前人未踏の真を知り得たといふ事は、実に神が世紀末に当り、人類の健康を復活せしめんが為、私を機関としてその大偉業を遂行せしめ給ふのであると信ずるのである。
最後に私の説を事実を以て立證する為、浄霊療法による結核全治者の体験報告を以下掲載して、参考に供する次第である。
(自観叢書一 昭和二十四年六月二十五日)