信仰は信用なり

抑々宗教信仰者は世間無数にあるが、真の信仰者は洵に寥々たるものである。然らば私は真の信仰者とは如何なるものであるかを書いてみよう。

如何程立派な信仰者のつもりで自分は思っていても主観だけでは何等の意味もない、どうしても客観的にみてのそれでなくては本物ではないのである。そのような信仰者たるにはどうすればいいかという事を先づ第一に知らねばならない。

そうなるには理屈は簡単である。それは人から信用される事である。例えば彼の人の言う事なら間違いない、あの人と交際をしていれば悪い事は決してない、あの人は立派な人である-というように信用される事である。

それでは右のような信用を受けるにはどうすればいいかといふと之も訳はない。何よりも嘘を言はない事と自分の利益を後にして人の利益を先にする事である。いはばあの人のお蔭で助かった、あの人につき合ってゐれば損はない、実に親切な人だ、あの人と遇ふといつも気持がよい-といふようであれば、何人と雖も愛好し尊敬する事は請合ひである。

何となれば自分自身を考えてみれば直ぐ判る。右のような人と識り合ふとすればその人と親しく交際したくなり、安心して何でも相談し、いつしか肝胆相照し合ふ仲になるのは当然である。

今一つ言ひたい事は、どんなによくしても一時的ではいけない。恰度米の飯と同じようで一寸は味がないようだが長く噛みしめれば噛みしめる程味が出てくる。人間は米の飯とは一日も離れる事は出来ないと同じやうに私は常にいふのであるが、人間は米の飯人間にならなければいけないと-- 

処が世間を見ると、右とは反対な人が余りに多い事である。それは態々信用を落すような事を平気でする。何よりもヂキに尻からばれるような嘘をつく。一度嘘をついたら最後外の事はどんなに良くても一遍に信用は剥げてしまふ、全く愚の骨頂である。如何程一生懸命に働き苦心努力をしても一向運がよくならない人があるが、その原因を探れば必ず嘘をついて信用をなくす為で、之は例外がないのである。

全く信用は財産である。信用さえあれば金銭の不自由などは絶対にない。誰でも快く貸してくれるからである。

以上は、人間に対しての話であるが今一歩進んで神様に信用されるという事、之が最も尊いのである。神様から信用されれば何事もうまくゆき歓喜に浸る生活となり得るからである。

(光新聞十三号 昭和二十四年六月十八日)