神懸り宗教

今日新宗教とさえいえば、一般はすぐ神憑的のように思ふが、之も無理はない。何しろ璽光尊や踊る宗教など、常軌を逸したようなものが目立つからで、又言論機関は興味中心から真先に取上げるといふ訳で、教線は微々たるものであっても、大きくクローズアップされるのである。それに引換え真似目な常識的な宗教は割合教線が大きいに拘はらず、一般に知れ渡らないのが実情であったといふ訳で、小なる神憑宗教が、大なる真似目な宗教を蔽ひ隠すといふ訳である。

此意味に於て、本教なども発展の割合には知られていなかったのである。勿論宣伝や売らん哉主義は一切用いなかったからでもある。それが偶々税金問題によって一躍舞台の上にノシ上げられた形となったので、新聞ラジオ雑誌等にジャンジャン騒がれるようになった事は、今や日本中誰知らぬ者もない程である。処が吾々は凡ては神の意図によるものと信じている以上、之も時節到来、積極的に転換すべしという神意と解釈し、神のまにまに宗教活動しつつあるのが現在である。

処が、自観先生は今日迄吾等が聞知した処の各宗の開祖と異り、神憑り式や、奇妙なる言動を非常に嫌はれる。常に諭される処は常識を神様とせよとの御言葉によっても充分窺知されるのである。又斯ういう事も言はれる-

神とは、言い換えれば完全なる人間という事である。故に人間は努力次第で神にもなり得るのである。そうして本当の宗教の行り方は一歩々々完全人間即ち世にいう人格完成に近づかんとする努力の生活であらねばならない。

然らば完全人間とは如何なる意味であらうかというと真理即ち神意を骨とし、人間生活を肉とみるのである。即ち如何なる不正にも誘惑にも動かざる確固たる精神を内に蔵し、常に天空海濶的心境に在って、日常の言動は融通無碍時所位に応じ何物にも拘泥する事なく、千変万化身を処すべきである。

又規律を尊び、怠惰を嫌い、万人を愛し、人に接しては春秋の気候の快適の如く、何事も極端に走らず、人に好感を与える事を之努め、親切謙譲を旨とし、他人の幸福を念願し、人事を尽して神意に任せる態の信念を以て進むべきである。

人事百般完全は望むべくもないが、一歩一歩その理想に近づく努力こそ、人として最尊最貴のものであり、斯の如き人間こそ生甲斐ある真の幸福者というべきである。勿論信仰の妙諦も是に在るので、此様な人間の集団こそ地上天国でなくて何であろう。

以上が大先生の常に言われる箴言である。

(光新聞号外 昭和二十四年五月三十日)