想像による批判

本教に対し、新聞雑誌が種々の批判的記事を掲げてゐるが、その殆んどは迷信邪教的に扱ってゐるのは読者の知る処である。処が彼等は殆んど調査などは行ってゐない。世間の風聞を本とした想像的産物であるから堪らない。考えてみれば実に無責任な話である。

新聞は事実を報道するなどといふのは宗教方面にはあまり通用されてゐない。成程宗教の本質は眼に見えざる空に等しきものであるから、どうにでも想像がし易いからでもあるが、これ等はもっと真面目に責任を感じて、出来る限りの調査検討をなすべきであらう。

新宗教必ずしも迷信ばかりではあるまい、中には真に社会大衆に裨益すべきものも必ずあるべき筈である。之ら無責任の為多くの不幸に喘ぎつつある人達が救はれ損ふといふ事実も相当あり得る筈である。とすればその罪は不真面目な新聞記事にあるのは勿論である。

之に関して今日実に馬鹿々々しい事は一方で人心悪化を憂へ、これを救ふのは宗教でなければならないと言ひ乍ら、一方では迷信邪教を撲滅すべしといふのであるから、斯んな矛盾した話はない。斯う考えてくると、彼等の論旨は宗教といえば古い既成宗教だけを目標としてゐる事である。

処が既成宗教は御承知の通り日本には山程あって、何百年も前から遺憾なく救霊に努力しつつあるに拘はらず今日の如き悪世相となるのを防止出来なかったのであるから既成宗教の力では社会悪を防ぎ得ないといふ試験済の筈である。

右によって考ふれば、どうしても既成宗教以外に求むるより外はないではないか。処が前述の如く新聞人や当局は既成宗教以上のものはないと決めて了って、新しいものには最初から色眼鏡で見るのであるから、其誤謬に目覚めない限り、人心善化などは思ひもよらないのである。

此意味に於て吾等は左の如き方法を提言する。それは新宗教の中あまり小さいのは未知数としてそのままに置き、或程度頭角を表はしたものをよく調査検討し、その中の優秀なものを選抜し、大いに援助を与えるべきである。それ以外人心悪化を防止する最善の方法はない事を断言するのである。

(光新聞八号昭和二十四年五月八日)