いわゆる迷信邪教 病貧争絶無の理想 日本観音の真髄

迷信邪教という言葉は今日一種の流行的標語となっている。新宗教とさえいえば十把一からげにそう言われてしまう。そうして彼等が鼻高々と言う処は終戦後社会不安の情勢に乗り、人々の藁をも掴みたい心情を利用し無智な民衆を騙してインチキ宗教をデッチ上げ、教主は生神様然となり済まし、多額の奉納金を上げさせうまい汁を吸うとは怪しからんというのが、殆んど紋切型となっている。故に彼等は迷信邪教を槍玉に上げ、社会民衆に警告を与える事こそ、彼等操觚者の一大任務であるとしているらしい。この独善的彼等を見る時、われ等は何時も呵々大笑せざるを得ないのである。

彼等がこれらの記事を扱うのは、一面売れればいいという商業主義からも出発している。それ故興味百パーセントに書かなければならない。それには根も葉もない、ウソっぱでも、相手の信用を傷つけてもただ売れさえすればよいという訳で、その殆んどが事実を枉げ、馬鹿々々しいと思う程の創作的筆を揮うのである。この点において一時流行したエログロ雑誌と何等撰ぶ処はない。某大新聞の如きは本教団に対する数字を百倍位に誇張しているにみて、他は推して知るべきである。特に雑誌に至っては本教に関する記事の中、真実は十五パーセント虚構八五パーセント位であるから、われらは唖然として言う言葉を知らない。

いま、新日本再建に当ってわれらは病貧争絶無を理想とし、人心を善化し、より善き社会を実現せんと日夜奮励努力しつつあるに拘わらず虚構に満てる捏造的記事を掲げて中傷せんとするのであるから、全く悪徳以外の何物でもあるまい。しかもそれ等を矯正すべき何等の手段も方法も今の処見当らないという実情であるから、全く石が流れて木の葉が沈むという言葉通りが行われている。

これらは実に社会機構の欠陥に乗じて、金儲けの手段として、善意の宗教団体に被害を与えるという訳で、民主主義と相去る事千里というべきであろう。

(光新聞一号 昭和二十四年三月八日)