我国に於る犯罪者の激増は、今迄に見られない程であって、百人以上の集団強窃盗事件で被害高四億円などという大袈裟なものや、集団暴行事件なども出たり、青少年犯罪の益加増えるなど、到底此儘で済まされない世相である。それなら中流以上はどうかというと之が又問題である。ヤレ何々公団の涜職、何々事業に絡まる贈収賄等々、忌わしい問題は殆んど尽くる処を知らないといってもいい。だが之等は偶々表面に表われただけの言わば氷山の一角でしかないとしたら、現在日本の社会悪は低知れずの感がある。恰度一杯溜ったゴミの山のようなもので、足の踏み場もないという有様である。としたら如何にすれば、之を清潔に出来るかという其事が当面の大問題である。勿論之等多くの難問題に対し政府も有識者も憂慮し、解決に懸命になっているのは諒とするも、容易に曙光すら認め得られないというのは、一体どうした訳であろうか。
それに就て吾等の見地から検討して見るとすると、当事者は実は飛んでもない見当違いをしているのである。それは全然目のつけ処が違っている。考えても見るがいい、第一犯罪のよって来る処は、どこに原因があるかという事である。此事がハッキリしなければ適切なる対策は立て得られる筈はないのは、判りきった話である。言う迄もなく犯罪の根本は人間の魂の問題で、之以外には何にもない。即ち魂の白か黒かで、善人ともなり悪人ともなるのである。従って黒い魂の持主を白に変える事こそ問題解決の焦点であって、それに気が付かないのが、今日の為政者及び有識者である。彼等は只外部に表れたる枝葉末節の面のみを対象として各種の方策を立て、防犯施設に大童になっているのであるから、言わば穴の開いている桶へ水を汲んでいるようなもので、何年掛っても犯罪撲滅など思いもよらないのである。誰かの言葉に犯罪を徹底的に無くすには、一人の人民に一人の警官がつかなければ駄目だと言ったが、穿ち得て妙である。従って如何に司法制度を改善しても、警察や裁判所が懸命になっても、予期の効果を挙げ得られないのは当然である。
では真に効果ある名案はないかと言うに実は大いにある。今、それを詳しくかいてみよう。前述の如く凡ての人間の魂を白に向わせるには只一つの方法しかない。それは言う迄もなく宗教である。之以外にない事は太鼓判を捺しても間違いはない。といって単に宗教でさえあればいいかと言うに、之が又大いに考慮の余地がある。御承知の如く宗教といっても八宗九宗色々ある。先ず新しい宗教から採り上げてみるが、遺憾乍ら之はと思う安心の出来るものは暁の星の如くである。としたら古い宗教はどうかというと、之も前述の如き黒を白にする程の力あるものはありそうにも思えないのは、誰もが同感であろう。としたら、先ず活眼を開いて、凡ゆる宗教を検討してみる事である。其中から兎も角これならという宗教幾つかを選抜し、それを援助しないまでも、好意的に扱われる事であって、此方法以外良策はあり得ないと言えよう。
処がどうした訳か、当時者は如何に社会悪を憂慮しながらも、宗教に依存しようなどの考えは更に起さない。飽く迄前述の如く唯物的方法に噛りついて離れようとしないのが現状である。としたら国民こそ不幸なものである。従って此盲点を啓き、真の宗教の本質を認識させる事が最緊要事であろう。言う迄もなく、犯罪者の観念は、見えざるものは信ずべからずという唯物観が基本である以上、人の目さえ誤魔化せばよいとし、それのみに智能を絞り、社会悪醸成を事としているのであるから、此観念を除去しない限り、他の如何なる手段を以てしても、一時的膏薬張り以外の何物でもあるまい。従って何としても唯心観念を根幹とし、神の実在を認識させなければならない。神の御目は不断に人間一人々々の行為を照覧し給うている事を信じさせ、悪因悪果、善因善果の道理を判らせるとしたら犯罪の根を断つ事は易々たるものである。
然し乍ら、此文を見た識者等はいうであろう。成程御説の通りに違いあるまいが、それだけで神を認めしむるなどは出来ない相談である、とするだろう。処がそれは識者等自身の観念が其通りになっているからで、在りもしない神の実在など押付けるとはヤッパリ迷信邪教の御託宣位にしか思わないであろう。というのは、彼等は単に宗教といえば、従来の宗教を標準として観るからで、之も無理はないが、茲で一歩退いて深く考えてみて貰いたいのは科学文化である。之は実に駸々乎として進歩し、次々発明発見が現われ、百年前と比べてみれば、其当時夢としていた事も今日は現実となっている。処がひとり宗教のみは何百何千年前の立教当時と、些かも変っていない事実で、此矛盾は何故であろうか。という疑問が起らない訳にはゆかないであろう。
故に今日識者が宗教を観る場合、旧時代の遺物位にしか思わない、恰度骨董品的見方である。従って吾々が社会悪の解決は、宗教によらなければならないといっても、彼等は全然耳を貸そうとはしない、茲に問題がある。前述の如く科学文化の進歩発展が、劃期的時代を創りつつあると同様、宗教と雖もそれと同様なものが生れなければならない。否科学の水準よりも一層前進したものが現われたとしても、敢て不思議はないであろう。としたら、其新生宗教こそ、科学で解決し得ないものを解決し得る力を有する事も、之又不思議はないのである。此意味が納得出来たとしたら、本教の実態を把握されない筈はあるまい。忌憚なく言えば、本教が如何に偉大なる力を有してるかであって、一度本教に入るや、何人と雖も容易に認め得るのである。考えても見るがいい、如何に立派なものでも、近寄らなければ見る事は出来ない。いくら美味の食物でも口へ入れなければ味は分らない。黄金の宝が土に埋っていても、掘らなければ掴めないと同様、只遠くで想像しているだけでは画にかいた餅である。人の噂や、新聞のデマなどに迷わされて、例の迷信邪教の一種位にしか想わないとしたら、自分から幸福を拒否するのである。先ず何よりも進んで触れてみる事である。虎穴に入らずんば、虎子を得ずとは千古の金言であろう。
(地上天国二十号 昭和二十六年一月二十五日)