何故救世教となった乎

開教以来未だ三年とは経たない観音教団も五六七教会も、今回統合して一つになり、救世(メシヤ)教の名によって新たに発足する事になったのは、如何なる訳であらうか、之は信者の誰しも知りたいと思ふであらうから、茲にかくのである。

以前から私が始終言ってゐる事は、神様は何事も型で見せると共に、型を行はせらるるといふ事である。その意味に於て何時かは霊と体、即ち経と緯と結び、十字形になり、それからが本当の神様の御働きになるといふ事である。経と緯は火と水であるから、火はカであり、水はミで、カミの御働きになる。

又仏教は月であり、月は夜の光であるから、観世音菩薩は御仏である以上、夜の月の御働きであるから、絶対力は揮い得なかったのは時期の関係で止むを得なかったのである。従而、愈よ昼の世界になる以上、仏の御働きは茲に解消し、神の御働きとならせらるるのである。それが前述の如く救世教となった事は勿論である。

右の如く神の御働きとなったとしても、日本古来からある神道とは違ふのである。神道は日本の民族宗教で限られたるものである以上、万事世界的になった今日としては意味がなくなったので、終戦後神道の影が薄くなったのも、それに外ならないのである。という訳で、最高の神様は民族や国の差別などはなく世界全人類を救はせ給ふ事になり、実に有難い時となったのである。是に於て適当な名称を冠せなくてはならない、とすれば、救世の名こそ最も相応しいが、救世教では漢字である以上、東洋的で面白くない。そこでメシヤの振仮名を附けたので、之によって東洋も西洋も合せて世界的といふ訳である。特にメシヤの言葉はキリストに相通じ、文化民族憧憬の名称たるに於てをやでもある。又聞く所によれば、メシヤと最後の審判とは密接な関係があるといふ事で、吾等が常に唱える夜の終りと昼の始まりとの意味と同様であるのは意義実に深いものがある。

処で、観世音菩薩が神の御働きとなるとすればどういふ変り方になるかは、信仰者として最も関心事であらう。それは度々言ふ如く、善悪無差別的救いが無差別ではなくなり、善悪をはっきり立別けられるのである。といふ事は善の御守護は益々厚くなり、悪には今迄と異い愈よ厳しく裁かれ給ふのである。此点を深く肝に銘じて進むべきである。それには何よりも出来るだけ御神書を拝読する事である。

神様は、御理想である真善美の完き地上天国を造らるる以上、心の穢れた間違った者を徹底的に是正されなければならないからである。

(地上天国十四号 昭和二十五年三月二十日)