沢村田之助他

先日田之助の映画を見て気が付いたのであるが同丈が脱疽の為両脚を切断し、疽(ヒョウソ)の為、両手の指を切断し、殆んど生きた達磨のやうな人間になって、尚舞台に出たといふ悲壮な話はあまりにも有名であるが、此手術をした医師は、之も有名な和蘭(オランダ)の名医ヘボン氏であった事は誰知らぬものもない。従ってヘボン氏は、日本に於る外科手術の鼻祖として今尚仰がれてゐる。そうして田之助の手術は明治四年であったから、其時が日本に於る手術の始りといふ訳である。

処が、殆んど例がないといってもいい程の田之助の身体である。最初右足を切断し治ったと思ふと、間もなく左の足が悪くなったので又切断した。それのみではない、手の指まで全部が 疽(ヒョウソ)となり切断したといふのであるから、其悲惨事は尋常事ではない。何かよほどの原因がなくてはならないと、誰しも思はずにはおられない。処が時人は斯ういふ想像説を唱えた。それは田之助は稀にみる美貌であったから、多くの女の罪を作った。その怨霊の祟りであらうといふ事になった。成程一応は、誰しも納得するであらうが、実をいうと、そういふ事も多少はあるであらうが、真相は誰も気付かない処にあったのである。それを書いてみよう。

初め、右足に脱疽が出来るや、放任しておけば自然治癒で済んだのである。何となれば、脱疽の原因は悪質の膿の排除作用であるからで、其儘にしておけば、漸次集溜の量を増し、最後に尨大な腫物となって紅潮を呈し、柔軟化し小さな孔が開き、毒血と膿が頗る多量に排泄され、元通り痕跡をみない程に全治されるのである。

然るに、充分化膿しないうちに手術したからで此場合一寸針で穴を開けただけでも膿の集溜は停止されるのである。之は造化の不思議で、私は数多く経験したのである。従而右脚も左脚も切断した為、膿はやむを得ず、手の指に排泄口を求める事となったのである。故にもし田之助が生きてゐたとしたら、又他の部に化膿する事は必然である。

右の理によってみる時、もしヘボン博士が在日してゐないとすれば、田之助は右脚だけで全治し非凡の伎芸を遺した訳であった。此一事にみても医学の誤謬の如何に恐るべきかを知るのである。

私が以前扱った患者の中に、斯ういふ例があった。四十才位の人妻、予防注射の薬毒が漸次下降して、足首から排泄しようとし、腫物が出来た。之等も放任しておけば簡単に治癒したに拘はらず医療は手術し、消毒薬を塗布した。すると消毒薬が強烈だとみえて傷口から滲透するや、腫物は以前に増して拡大し、痛苦も漸次強烈となり、遂に足首から上方に向って拡がってゆくのである。医師は驚いて上方に腐り込むのだから、膝の下部から切断しなければならないと言はれた。其時私の所へ来たので、膝を切らずに数年かかったが、治癒したのである。之に似た話が相当世間にはあるが、最も不運なのは、最初足指の 疽(ヒョウソ)を手術によって一旦治癒するや、次々他の指に出来切断し、数本の指が欠除したり中には足首に出来、それを切るや今度は膝から上部に出来るので、股の付根から切断する事になる。此様になった人は大抵死は免れないのである。

次に斯ういふ患者があった。五十才位の男子、最初上に腫物が出来た。それを散らそうとし、強烈な薬剤を塗布した為、その薬剤が皮膚から浸透し漸次拡大し、数年間に全身に拡がって了った。色は暗紅色で、最もひどい処は紫色を呈し、其醜怪なる見るに堪えない程で、患者は苦悶の連続で睡眠も碌々とれないのである。私は一見、膚に粟を生じたので手の施しようもなく、断ったがそれから数ケ月後死んだという話である。

次に、斯ういふ珍らしいのもあった。四十才位の人妻、右眼と眉の間に腫物が出来た。それも放任しておけば自然に治るのだが、医療はレントゲン放射療法をした。その結果強く固ったので、集溜毒素は腫物の裏面深部に漸次量を増すと共に、下部の方へ腫れ出し、遂には驚くべき程の大塊となった。而も、眼球は上方から圧迫される為、眼の位置は下降し、丁度前頬の中央部に三日月形になったのである。常に白布で隠してゐたが、私は最初白布をとるや、愕然とした。どうみても妖怪としか思えないからである。之は全く充分腫らして、自然に排膿させれば完全に治癒すべきを知らない医学は、レントゲンで外表を固結させ、腫脹を停止せしめたのが原因である。

右は数例に過ぎないが、まだまだ数え切れない程経験したのであるが、その悉くは医学の誤謬によるので、実に恐るべき事といはねばならない。此文をみた医家は成程と肯き得る筈であると共に覚醒する賢明なる人もある事を信じ、書いたのである。

(地上天国十三号 昭和二十五年二月二十日)