観音信仰

人間生活に於て何事もそうであるが、特に観音信仰に於ては円転滑脱自由無碍でなくてはいけない。円転とは丸い玉が転がるといふ意味であるから、角があっては玉が転がらない。世間よくあの人は苦労人だから角が除れてるといふが全くその通りである。処が世の中には角処ではない、金平糖のような人間がゐる。斯ういふのは転がる処か、角が突っかかってどうにもならない。そうかと思ふと自分で型を作ってその中へ入り込み苦しむ人もある。それも自分だけなら未だいいが、他人までもその型の中へ押込んで苦しませるのをいいと思ふ人があるが、之等は小乗的信仰によくある型で、所謂封建的でもある。斯ういふ行り方は信仰の上ばかりではない、社会生活に於てもカビ臭くて、鼻もちがならない。

そうして自由無碍といふ事は型や枠を造らない、戒律もない、天空海かつの自由で、無碍もそういふ意味である。ただ自由といっても我儘主義ではない、人の自由も尊重する事は勿論である。

観音信仰は大乗信仰であるから、戒律信仰とはよほど違ふ点がある。然し戒律信仰は、戒律が厳しいから仲々守れない、止むなくつひ上面だけ守って蔭では息つきをやるといふ事になる。つまり裏表が出来る訳でそこに破たんを生ずる。と共に虚偽が生れるから悪になる。此理によって小乗信仰の人は表面が善で、内面は悪になるのである。それに引換へ大乗信仰は人間の自由を尊重するからいつも気持が楽で、明朗で裏表などの必要がない。従而、虚偽も生れないといふ訳で、これが本当の観音信仰であり、有難い処である。

又小乗信仰の人は不知不識虚偽に陥るから衒ひたがる、偉くみせたがる、之が臭気芬々たる味噌になって甚だ醜いのである。そればかりか反って逆効果となり、偉く見えなくなるものである。小人といふのは斯ういふ型の人である。

又斯ういふ事がある。私は普請をする時にはいつも職方と意見が異ふ。どういふ訳かといふと、職方はただ立派に見せようとするので、それが一種の嫌味になるから私は直させる。人間も右と同様で偉く見せないようにする人はすべてが謙遜となり、奥床しく見えるから、そういふ人は心から尊敬されるようになる。故に観音信者は心から尊敬される人にならなければならないのである。

(地上天国三号 昭和二十四年四月二十日)