おかげばなし批判 霊線の尊さ

不幸は本教を知らざる家庭

東京都H・T

去る四月私の友達M君に頼まれI区のある家に御浄霊に参りました。この人は自転車で牛車に衝突し脚をひかれて以来一二日間も(怪我は案外軽くて治ったが)全然熱が下らず困っているとか(毎日三九度から四十一、二度)併もこの人が長男で次男も腹膜で同じく床に就き熱が下らず、又三男は肋膜とかで付近のT病院に入院中、父親は何年も前から中風症で働く事は不可能で家族六人中働ける者は母親と長女だけで男は全部病気と言う何か霊的原因のありそうな家でした。

全くお気の毒な状態でした。無論全部医師の診察を受け毎日注射をしておりました。私の伺った時にはもう母親も看護やら商売に全く疲労し、今日とか明日長男を入院させる心算でT病院へ入院の手続をして帰って来られた処でした。そして私に「今日か明日か入院させる心算ですから、一度位やっていただいても駄目でしょう」と言われるので「イヤ仮令一度の御浄霊でもそれだけ違います。又熱位なら下るかも知れませんから是非やってあげましょう」と明主様に一心にお願いし善言讃詞を奏上しながら御浄霊をさせて頂きました。仮令熱が下らず入院してしまっても一度の御浄霊によって病人の霊否御先祖様の霊が少しでも浄められればそれで結構と思ったからです。

その翌日私は又M君の家へ行ってみました。 すると昨日のM君の友人の家からお使いがあって「お蔭様で昨夜から熱が下り入院を思い止まりましたから是非今日又来て頂きたい」との事でした。M君の家族の方々もこれによってすっかり感心してしまいました。私も余りの偉大なる御力に今更ながら驚き又筆舌につくし難い感謝の念で一杯でした。早速伺ってみますと一二日間の熱で衰弱はしておりましたが、昨日とは見違えるばかりの元気な明るい顔で私を迎えてくれました。此場合の病人の気持はどんなでしょう。然し治させて頂いた私の方がどの位嬉しいかは体験者ならでは味わう事の出来ない気持です。しかも御守護はまだまだ偉大だったのです。その病人は昨夜から気分が良くなり熱も下り、今朝は大変楽で食事も進み全く平熱になってしまいました。それと同時に弟も私と同様に楽になり熱も下り今までなかった食欲も出て顔色もずっとよくなりました。全く不思議と言うより他はありませんが「こんな事実は有り得べき事でしょうか」と言うのでした。

ああ、何たる奇蹟でしょうか。長男の御浄霊のみでその弟の病気までも治して下さる妙智力、私は此様な事実に直面したのは初めてで又未だ話にもきいておりませんでしたが『信仰雑話』の「霊線に就て」の項を読まさせて頂いて夫婦の霊線が最も太くそれに次いで親子兄弟等々繋っているという事を思い出し「此様な事は私も初めてですが有り得る事と思います、何故ならば」と言って此霊線の事に就て説明しますとすっかり霊と言うものの動きの偉大さに感心しておりました。所属諸先生を通しまして明主様は全く私如き至らぬ者へも斯くの如き素晴しい御守護を賜ったかと思いますと唯々神様の大慈大悲に感泣し人類救済の御用に出来得る限り尽させて頂かねば申訳ないという念は一層燃えるのであります。

右の批判

右の実例は、不幸の見本ともいうべき家庭で、医学に頼り切っているに拘はらず効果のない事を如実に物語っている。此様な不幸な家庭は、現在到る所にあるであらうが、之等を救い得ざる医学に満足するより外ない時世とは気の毒の一語に帰すると言ってよからう。全く本教を知らないからである。

之を一言にして言えば“不幸なる者よ、汝は救世教出現を知らざるものなり”である。

(救世六十一号 昭和二十五年五月六日)