宗教不感症

普通常識からいえば、世の為に尽すとか、人を幸福にするという事は善い事に違いないから、賛意を表し援助をしたくなるのが真の人間性である。処が不可解にも甚だ冷淡に振舞う人をよく見受けるが、そういう人は案外多いようである。彼等の偽らざる心情は、世の為とか人の事などはどうでもよい、そんな事は骨折損の草臥れ儲けにすぎない、すべては自分だ、自分に利益がある事だけすればいい、それが一番利巧だ、そうしなければ金を儲けたり出世したりする事は不可能だと思ってゐるらしい。実は斯ういう人の方が反って利巧に見えるものであるから、世の中は可笑しなものである。

従而、此種の人は自分がどんな苦しみに遭っても唯物的打算的に考える。即ち病気は医者にかかればいい、面倒臭い事は法律の力を借りればいい、言う事を聞かない奴は叱言を言うか痛い目に遇はせてやればそれでいいと甚だ簡単に片附けて了う。又吾さえよければ人はどうでもいいとする主義だから、自分だけが贅沢に耽り、他を顧みようとしない為全然徳望などはない。集る輩は利益本位のみであるから、一朝落目になるとみんな離れて了う。

勿論斯ういう人に限って年中問題や苦情の絶えた事がない。終には何事も巧くゆかなくなり、失敗するとそれを我で挽回しようとして焦り、無理に無理を重ねるのでいよいよ苦境に陥り、再び起つ能わざるに到るもので、斯ういう例は世間あまりに多く見受けるのである。勿論信仰の話などには決して耳を傾けない。眼に見えない神や仏などあって堪るものか、それ等はみんな迷信である、神仏は人間の腹の中にあるんだ、俺だって神様なんだよと誇らしげに言うのみか、そんな事に金や時間を使うのは馬鹿の骨頂である、信仰などは弱虫の気休めか閑人の時間ふさげに過ぎないとしてテンデ相手にならないのである。

斯ういう人を称して、吾等は信仰不感症と言うのである。

(救世五十七号 昭和二十五年四月八日)