お伺ひロマンス

二人袴

(本文省略)

御答え
私は此小説を読んで面白いと思ふと共に、世の中にはこれと同じような問題がよくあるのを思った。私は此小説の作者岩崎氏から此解決を求められたが、同氏の意図は無論信仰を通してのそれに違いないと思うが、此愛欲の争闘がこゝまで追詰められて来たとすれば三者何れもが満足出来る解決は着き難いであらう。そうして此問題の困難な点は、三人共善悪がないというよりも、悪の炎がないからである。此処まで来た経路を見れば自主的意図は更になく、いとも自然に転回して来た運命であるからどうしようもない。言う迄もなく三人の中誰かに悪があるとすれば、その解決も敢て難しい事はないがそうでない処に難点がある。

先ず私が作家として考えてみる時、斯ういう風に描いたらどうかと思う。

吉太と平太を前以て約束の下に女に選択の自由を許すのである。何となれば女自身の心の奥底には、どちらか愛の濃い方があるに違いないからで、その結果負けた方の執着の厚薄と良心の分量によって決るのだが、もしか負けた方が諦められないとしたら、茲に新しい波瀾の種が出来る訳で之れからの葛藤こそ小説として面白くなる。といって成程信仰によって解決つけるのが一番いゝが、此の場合三人が三人信仰に入る訳にもゆかず、といって仮に入信出来たとしても、信仰には深い浅いがあるから実際問題としてはまず可能性があるまい。

これが封建時代なれば、女はアチラ立てればコチラが立たぬというヂレンマに陥って、一身を犠牲にするという美談的解決点があるが、今の世の中ではそういう事は望み得ないし此階級の人間としたら、どうしても愛欲の闘争に陥るとみるべきが自然であろう。とすればどうしても悲劇に終らざるを得ない事になる。斯うかいてくると、此小説の続きは作者の考え方一つというより外にない。然し一番間違いない観方は戦争が生んだ悲劇の一種にすぎないのである。

何だか岩崎氏からメンタルテストに遇っているような気がするが、これでパスすれば幸甚である。

(救五十四号 昭和二十五年三月十八日)