顕微鏡検査

顕微鏡検査とは、勿論結核菌の有無を知る方法である。それは結核菌は感染するといふ学説の為であり、従而、保菌者を開放性といひ最も恐れ、隔離の手段を執るのである。然るに、私は結核は絶対に伝染しないものである事を敢て断言する。それに就て私は約二十年間に渉って、私の子女六人をして、第三期以上の結核患者と同室に起居させ、食事も共にさせ、而も消毒は勿論何等の感染防止方法も行はなかったのである。そうして右の如く宿泊させた結核患者は十数人に上ったであらう。而もその中数人は私の家で死亡した位であるから、如何に重症であったかを知るべきである。勿論大病院に於て見離されたもののみであった。然るに、数年を経た今日に至るも、家族中に一人の結核発病者もないにみて、非伝染である事は疑ないのである。

従而今日に於ても、もし感染の実験を求めらるるとすれば、何時にても喜んで応ずるのである。私自身は勿論、私の家族でも、又門弟等の家族等を、算(カゾ)へれば数千人はあるであらうから、それ等の悉くは試験台になるのである。

其他種々の実験によってみても、感染しない事は確実である。然るに現在学理上に於ては感染するとなし、種々の繁雑なる防止法を実行し、多額の費用と労力、資材等を重点的に費す以外、感染を恐れる結果として、産業戦士や社会各方面の凡ゆる層の結核患者の労務を停止し、隔離させるのであるが、之等の方策の如何に無益であり、戦力を消耗させつつあるかといふ事は、蓋し予想外に大なるものがあらう。従而学理上如何に感染を主張すると雖も、事実に於て感染しないとすれば、学理と実際の喰違ひであり、学理に誤謬がある訳であるから、大問題として大いに考慮しなければならないのである。実に誤れる学理の為に、国家国民が如何に大いなる犠牲を払はされつつあるかといふ事を惟(オモ)ふ時、私は慨歎に堪へないのである。

そうして医学に於ての結核感染は、彼のパスツールの細菌空気伝染説、コッホの結核菌発見等が結びついて、畢に伝染説となった事はいふ迄もない。右に就てパスツールが、それまで自然発生説であったのを破って、空気伝染説を主張し、それが定説となった事の如何に誤謬であるかは、拙著「結核問題と其解決策」中に詳しく掲載されてあるから参酌されたいのである。勿論私の研究に於ては、結核菌は自然発生である。それは喀痰が排泄されずして長く体内に残存する場合、腐敗して発生するのである。爰に驚くべき事は、右の如く喀痰を残存なさしむるその原因が、医療による浄化作用停止の為である事である。折角浄化作用発生し、凝結毒素が溶解しはじめ、順調に喀痰となって排泄さるれば、結核菌などは決して発生し得ないのである。彼の如何なる物質と雖も、虫類や微生物が発生するのは、時日の経過によって腐敗するからである事は一切に通有の原則であって、結核菌と雖もそれに漏るる筈はないのである。 以上の如く、各種の機械的診断に就て述べたのであるが、その何れもが、帰する所結核そのものとの直接関係のない事は明かである。と私は想ふのである。故に実際上、医学は未だ真に結核を解決すべき方法も薬剤もない事は勿論、結核の原理も、細菌発生の原因も確認せらるる域に達してゐないのである。にも係はらず強ひて解決せしめようとする所に無理が生じ、誤謬が発生する。それが畢に不確実なる方法を以て診査をなし、自信のない療法を行ふのであるから、寧ろ危険ではないかと思ふのである。

私は、右の私の説を證する為、一の断案を下そうとするのである。それは早期診断や注射等が、医学で言ふが如き実際的効果あるものとすれば、医家の家族には結核患者の発生がない筈である。もし仮りに患者発生がありとしても速かに治癒すべき訳である。何となれば早期診断も手当も遺憾なく行はれ、決して手遅れなどありやう筈がないからである。然るに、事実は医家の家族に於ても、結核患者発生も結核による死亡も一般世人と何等異ならない事は何人も知る処であらう。

此意味に於て、医家の家族に限り一般と比較して結核絶無か、又は非常に少いといふ実績を表はさざる限り、現在の医学は結核に対しては全然無力であるといはれても、それの反證は挙げ得られないであらう。従而そうであるとすれば、凡ゆる結核対策なるものは何の為であるかといふ事になり、結局莫大なる浪費に過ぎないといふ結論にならう。故に責任者たるもの、此国家大非常時に際し深く自省すると共に、西洋医学以外の方法による解決策に着眼すべきではないか。そうする事こそ国家社会に対する国民の責務を全うする所以であると思ふのである。

(結核の正体 昭和十八年十一月二十三日)