不可解な読売紙の行動

近頃、読売紙の記者が本教信者の家を一々訪問しては信仰の状態、本教に関する何かの欠点を掘り出そうとする質問、特に知人に本教浄霊によって病気悪化したものはないか等、根掘り葉掘り、執拗に問い訊すので、甚だ迷惑しているという事を、度々聞くのであるが、斯ういうような新聞のやり方は、民主主義の社会で許さるべきものであらうか。それのみではない、同紙は、本教に打撃を与えるようなネタを探そうとして記者を特派し、熱海をはじめ各地に狂奔させているそうである。

右は社会の公器たる新聞紙の使命の限界を逸脱してゐるのではなからうか。マサカ私憤や怨恨をはらす意図ではあるまい。とすれば想像出来ないのである。之を見る吾等としては憤りを通り越して寧ろ憐愍の情さえ沸くのを禁じ得ないのである。

斯ういう新聞が、大新聞とか何とかいって堂々と大手を振っているのであるから、日本の社会が改善されないのは当然である。といって優秀なる立派な新聞もあることも事実で之によって新聞悪の調節も出来ようというものである。

(救世五十一号 昭和二十五年二月二十五日)