神徳斯くの如く験かなり

本教の信仰は昔からある凡ゆるそれとは大いに異っている。というのは既成宗教に於ては、神と人との関係が余りハッキリしていないのである。といっても彼のキリスト教始め数ある宗教の中には、成程熱烈な信仰を捧げる時、驚くべき奇蹟が現われ、神意が明らかに感得される例も尠くはないので、その為にこそ何百何千年に亘って、多くの人達に魂の糧を与えて来たのである。然も今日大を成してる宗教程そうであるのは言う迄もない。

処が本教に於ては、神と人との結び附きが余りにもハッキリしている。何しろ現在の如く紀元末ともいうべき地獄世界を救うとしたら、既成宗教以上の超宗教的力を有っていなくてはならない筈である。従ってこの救世の力を発揮する基本条件としては、神と人との関係が非常にハッキリしていなければならない訳である。成程難病が救われ、無い命が恵まれた以上、無限の感謝が湧くのは当然であって、それを具体的に表わしてこそ、神は第二の恵を与えられるのである。

そうしてそれに酬ゆると共に、恵まれた命は何が為かという事を考えてみるべきである。勿論御神業の御役に立てんが為の神意である。これに就いては先日も神様の事は、一切理屈に合わなければいけない。理屈に外れるから再浄化が起ったり、命まで失くすのである。それに引替え戴いた命は最早自分のものではない、神様の御手にある以上、救世の為力限りベストを尽くす。そうしたなら再浄化などは消し飛んでしまうので、反対に歓喜幸福な境遇になるのは、絶対間違いないのである。

従って不幸になるのも幸福になるのも、自分の心掛次第で、この点一分一厘も違いないのである。それは左の御蔭話がよく表わしているから、読んだ人は成程と思うであろう。

再浄化による喉頭結核を救われて

(本文省略)

(栄光二百二十一号 昭和二十八年八月十二日)