この事実を何と見る

吾々はいつも医学の治病力に比べて、浄霊の治病力の偉大なる事は、百対一といっても過言ではないとしているので、これを読んだ人は到底信ずる事は出来まいが、併し事実は飽迄事実であるから、そのつもりで読んで貰いたい。従って若しこれを読んでもまだ信じられない人があるとしたら、その人は気の毒ながら一度彼の世へ行って、生まれ変るより致し方ないであろう。虎造君の浪曲に馬鹿は死ななきゃ治らないという文句があるが、それに当嵌るような気がする。

医師より死の宣告を受けし
「両肺の空洞」より救われて

広島県 I・Y

私は去る昭和二三年九月のこと、急に発熱し、咳は連発致しますので医師の診断を受けましたところ、肺浸潤といわれ、当時入手困難な高価なマイシンを買い求め注射致しましたら一〇日間余りで一応平常に復しました(当時神戸に在住致しておりました)。

さて、二四年は大禍なく暮れましたものの、明けて二五年三月頃より前回と同様の状態が再発、否、最初のそれより余程悪化しているように思われました。併し某医師の診断では「心配する程ではないから安静にして極力魚肉類を食べるように」との話で、カルシウム程度の注射を受けておりましたが、依然として食欲なく体力は益々衰えるのみですので、思い切って県立病院の診断を乞いましたところ「右肺に空洞があるから直ちに入院し手術しなければならない」といわれました。この時の驚きと落胆の深さは恐らく体験者でなくてはお分り頂けないのではないかと思います。併し医学を最上のものと信じ切っている頃の事ですから、それこそ本当に夢中で早速神戸の某病院に入院、手術を受ける覚悟でしたが、院長はこれを排してマイシン療法をとりました。その時撮影致しましたレントゲン写真の結果、既に両肺に空洞ができていました。ほんに短期間にできたものでございます。その後約一カ月で退院致し、自宅で安静療法に移りまして、何とか一夏は過しましたものの、経済的にも行詰り、遂に意を決して故郷尾道に帰りました。

その後約半年して尾道保健所にて受診致しますと、右肺に又空洞が一つ殖えていました。そこで今度は本格的療養をと思い右保健所の所長の通知書を持ち、国立賀茂療養所に入院を申込みました。ところが患者が多く入院不可能の有様でした。それは現在入院患者は四〇〇名でその希望者は、私が一三〇〇番だといわれ、病室のあくのは、殆んどの方が諦めて(経済的事情等により)退院するか、又は死ぬかであるとのこと、その死亡者については火葬場の人は「月に四、五人は仕事がある」といっておりました。その程度のあきようですから一寸希望が持てませんでした。そしてなお県下には、三〇〇〇名位の結核患者がいるとのことでした。

その他福山の国立病院も同様で、しかも手術者は大抵前記療養所におくるとのことでした。手術しなければといわれ乍らも、その希望も消え、限りない焦燥の中になお半年程も経た昭和二六年一〇月に再び尾道保健所の診断を乞いに参りました。そこは自宅より約六キロはありますが、道中紫外線に当ると悪いといわれていたので朝の三時に出発、手押車にて蒲団にくるまり、まだ明けやらぬ五時、その門を叩いたのでした。そしてその結果は遂に入院拒絶という最悪の状態でした。医師が匙を投げたのです。その時の医師の言葉を到底忘れる事はできないのです。即ち「貴方はもう到底駄目です。先ず医師の手で治すとすればどうしても一〇年以上はかかる、それも生死の程は請負えぬ」と、そして「貴方一人を一〇年入院させる代りに、もっと軽い方を二、三年入院させれば四、五人は助かるかも知れない。小の虫は殺しても」とかくもはっきり体よく断られたのでした。覚悟はしていたものの、こう迄はっきり断られようとは……何卒その時の胸中御推察下さいませ。

私は只茫然として何を考える力とてなく帰りましたものの、なお生きたい希望は強かったのです。何とかして生きたかったのです。私にも一人の子供があります。その頑是ない子供の将来を思う時、せめてこの児が二〇歳になる迄は生きてやりたい。ああ、それも駄目なのか……と思えば絶望が凡てを奪い去り、眠れぬ夜を幾夜送ったことでしょう。涙で濡れた枕を如何にかき抱いたことか知れません。丁度その頃、私は親戚のMさんから御浄霊を頂いていたのです。一里余りもある所を、それも山道を越して時には夜の一時二時になってからでも自転車で毎日の様に通って下さいました。その姿に有難いとは思いつつも、医学迷信でコチコチの私は腹の中では御浄霊を密かに嘲笑致すことさえありまして、断られる医学をなお強く求めて止まなかったのでした。その私もこの一〇月の診断の結果信ずるものからは見放されることとなり、一方Mさんの熱烈なる御誘導により遂に一切の医薬を投げ出して一途に信仰生活に入ったのでした。

今にして思えば何故もう少し早くこの気持になれなかったかと思われてなりません。そして昭和二七年四月、また起き上る気力もなきまま、勿体なくも寝たまま教修を頂き、A先生より御守様を拝受させて頂きました。その後は自分でもその衰えた体を御浄霊致しますと、約一〇日後激しい咳の御浄化を頂きました。それは昼夜ぶっ通しなので一睡もできなかった程でした。勿論食欲もなく喀痰はひっきりなしに出ました。併しそれは一週間でぴたりと済みました。それから約一カ月経て再び猛烈な御浄化がやって来ました。それは手足一つ動かすのも大儀で背中の痛みはどうする事もできず、咳と喀痰で食欲はなく、衰弱と苦痛はその極に達しましたので家族の者は勿論のこと、私自身ももう死んでも致し方がないと、一応は死も覚悟を致しまして一切を神様にお任せし、心配致しませんでした。その頃「再浄化の結核は一週間に一回位の御浄霊を」との御教えを頂き、その御教え通り自分でも実行させて頂きますと、九月に入り俄然よくなって参りました。咳と痰は非常に少なくなり食欲は餓鬼の霊の如しで体力がぐんぐん出ました。もう寝てもおれなくなりました。そして一〇月、二月には農繁期の手伝いまでできたのです。これが奇蹟でなくてなんでありましょう。まことの治療法でなくてなんでありましょう。この夏の私の状態を知っておる者はこの目の辺りの現実にそれこそ驚嘆致しております。

さて猫の手も借りたいというあの農繁期に終日を手伝い終えて、その後を振り返る時、新たな感慨が怒濤のように押しよせてくるのをどうすることもできませんでした。二カ年の長い病床生活、しかも昨年の一〇月にはあの保健所ではっきりと断られ、生きる希望とてなく、幾日となく泣き明したあの涙、そして今この頬を伝う涙は、同じ塩分と水分の涙ではありましょうが誰が果して同じ涙といい得ましょう。今この日の前に見える仕事の跡は、現実に夢ではない、私がこの手でこの体でやり遂げたのだ、と思う喜びと感激に満ちた輝く涙なのです。そしてその後まだ一日も休んでおりません。

明主様、本当に、本当に有難うございました。なお就寝中は寝たままの御浄霊で妹の背中の激痛、父親の長い間の神経痛等御救い頂きまして本当に有難うございました。何卒この上は一人でも多くの、特に同病で苦しんでいる方達が一日も早く御救い頂かれますよう念願して止みません。幸い只今迄に二人お導きさせて頂きまして有難うございました。

右甚だ拙文で恐縮ではございますが、謹んで有りの儘御報告申し上げました。

明主様、誠に有難く厚く厚く御礼申し上げます。

(栄光二百十一号 昭和二十八年六月三日)