私は結核医学に就て、凡ゆる角度から検討して来た事によって、読者は大体判ったであろうが、言う迄もなく医療を受ければ受ける程、病気は悪化するという驚くべき事実である。何よりも本著附録の百例中、残らずと言いたい程そうかいてあるから、全部を読んだなら、如何に疑い深い人と雖も、信ぜざるを得ないであろう。としたら之程の医学の誤謬を、何故今日迄気が附かなかったかという事である。幸いにも私によって発見されたからいゝが、そうでないとしたら、人類の前途や実に暗澹たるものがあろう。茲で私の事を少しかいてみるが、元来私は医学的知識など殆んどなく、只少年時代から多病の為、一般人の読む程度の医書を多く読んだだけであるが、然し今考えてみればそれが可かったのである。何となれば医学の潜入観念が専門家的にあるとしたら、素直に神意を受け入れ難いからである。而も病に対する治病霊力をも与えられたので、多数実験の結果と相俟って、真の医学の発見が出来たのである。それに就て左記三例は、医学の盲点をよく表わしているから、茲に挿入したのである。
気胸二カ年の肺結核より救わる
東京都 N・T
肺結核の苦悩のどん底より歓喜に満ちた生活に転換さして頂いた私の喜びを、嬉しさの余り結核に苦しむ人の為に乱文では御座いますが御報告させて頂きます。
私は血気盛んな折、風邪気味ながら東京貯金支局に勤務致しておりました。昭和二一年一一月の事、年一回の集団検診がありまして、レントゲン検査で曇りがあると申し渡されました。小さい時より病気一つしなかったもので、其時の落胆は言い様がありませんでした。役所の医師に休む様に言い渡され、仕方なしに休む様になりその後宮内省病院へ行き再診して左肺浸潤との事、三カ月天井計り見ている安静生活が始まりました。昔から不治と言われる病気乍ら、医師の言う通り安静栄養を忠実に守り、結果は一進一退、早く治そうと焦りました。三カ月経ちレントゲンの検査の結果「空洞が出来ている」との事で、気胸をするよう勧められ、私は反対でしたのですが、親も奨めますので仕方なしにやりました。其気胸をやるのが痛いので、其日が来るのがいやでした。空気三〇〇位入れ空洞をつぶすとの事です。胸は苦しく困りましたが、それでも根気よく続けました。其結果空洞はつぶれましたが、今度はあまり空気を入れすぎ、副作用により水が溜り、遂に肋膜炎を起して了いました。其後も水を取り乍ら気胸を続けました。気胸は根気よく二年間、約七〇回続けました。其中「心臓は右に移動し、溜った水は化膿した」との事で、一週間ばかり入院を致しまして調べましたが、外科では「化膿していない」と申されましたので一時退院を致しましたら、気胸のあとが腫れて化膿しはじめ、オデキの様になり、腫れては膿が出、 又腫れるという風に幾カ所も化膿して参りました。その内皮は取れて胸一杯潰瘍になって了い、実に困りまして病院へ行きました処、外科へ廻され治療を受ける事になりました。併し余りひどく治りませんので終には面倒になり「手術をした方がよい」と申されました。其時の外科医との対談中、私が「手術をすれば治りますか」と訊けば「それは分らん。君道路を歩いていて自動車に轢かれるという事もある。それは突発事故だ。手術も同じである」と言われます。人間の生命を扱うのにあまりあっさりした解答で、唯茫然となりました。内科医は「反って手術しない方が良い結果になる時もある」と言われますし、私自身も気が進まぬまま手術を中止して家庭療法に入る事にしました。其時は私はもう医学にも見離された者と悲観し、殆んど自暴自棄的な気持で運を天に委せていたのです。
丁度其頃、昭和二四年一月一六日、フトした動機で隣のFさんという信者さんの家に行くようになり、そこで神の大愛の御手は差伸べられたのであります。 色々とお道の話をお聞き致し、私も驚いて浄霊を受けて見る気になり、それよりK町のAさんという信者さんの家へ通い浄霊をして頂きました。色々有難い奇蹟の話もきかされますし、浄霊の原理も話して貰いましたが、其当時は勿論半信半疑で唯無我夢中でした。初めの中は別に変化もありませんでしたが、五月には御浄化を頂き、血便の下痢がはじまり一週間ばかり続きました。それからは身体は軽くなり、肋膜の水が出たのではないかと思いました。其後日増しに良くなり、潰瘍もすっかり乾いて来たのです。お蔭様で二年目には気胸の後も傷口もくっつき、外科医師の絶対くっつかないといった傷も口が塞がり、大変嬉しく感激致しました。
医療を止めてから二年目の二六年六月二八日に久し振りでレントゲンで診てみたく思い、宮内省の病院に行きますと両側の椅子には病人が一ぱい居りました。その中には二年前に知っている患者さんも居り、まだ身体が悪くて青い顔をして続けて通っているのには驚きました。前にお世話になったM医師に会いました処、先生は私があまり変りましたので、暫くは私と分らない様子でした。それもその筈です。二年前には死の一歩手前、実に見るも憐れな状態で病院を去ったのですから。やがて診察室に入り診察を受けました時M医師は「君幽霊かと思ったよ」とか、「もう三回忌の筈じゃないか」等と言って、しきりに驚かれます。私は「幽霊が話をしますか」と言って冗談を申しましたが、本当に自分は大きなお救いにあずかったのだ、 という事を改めて深く心に感じ感謝の思いに満されました。診察の結果兎に角余り良好なので驚き「一体どうして此様に丈夫になったのか」と質かれましたので、メシヤ教に入信御浄霊を受けて治して頂いた一切を話しました。医師は「水もないらしい。ラッセルの範囲も小さくて居ります。更にレントゲンの透視で調べて「水もなく大変肺もきれいだ」との事で、又々驚いておられるではありませんか。此時程医学の力と浄霊の御神力の違いさの大きい事を感じた事はなく、噫斯うして自分は救われたのだ。之も皆明主様のお蔭と深く深く感謝申し上げました。早く御礼申し上ぐべき処、延引致しました事をお詫び申し上げます。
明主様本当に有難うございました。
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私の結核克服記
「駄目だ」「むずかしい」と言う感じが強く私の頭を去来したのは、昭和一八年七月スラバヤの病院ででした。肺浸潤という病名で入院していた私は、或日今迄にない倦怠感を覚えた。恰度其日軍医の喀痰検査があり、二日後に「三号菌」と銘打たれてTB病棟へと移された。安静、禁煙、看護婦の監視は厳重である。然し私は考えました。「どうせ駄目ならば好きな莨位は吸ってよさそうなものだ」と。而も風呂も水浴も駄目、一人裏側の病舎に移されて淋しくてたまらない。夜中に起出て汗ばんだ体を拭いたり、隠した莨を吸ったりしました。内地還送とは廉恥心の強い当時の軍人は極力嫌ったものである。今にして思えば幸を不幸らしく見せかけて、自己を価値づけんとした人間動物の醜い一場面でしかありますまい。ジャカルタの病院に後送された時二名の軍医将校がTBに侵されて入院していた。「軍医でも手当が遅れるとTBになるかね」「そりゃあんた医者でも病気をせんとは言えないですよ」「肺は一体治るのかね」「治りませんね。内地へ帰って静養した方がましですよ」「治らんのを知ってカルシウムだ、何だと注射するのですか」「没法子よ(しようがない)」と支那語で語った軍医さんは広島の人でした。「美味しいものをウンと食べて体力をつけるより他に方法はないですね」という軍医のTB患者から聞かされてより、自暴自棄の病院生活が始まった。ゴツンコをする位入っている兵舎の方は毎日死んでゆく。軈て自分もあんなになるよりは存分に遊んだ方がましだという変な気持が頭をかすめる。注射器を持って看護婦さんが来て、毛布をめくると、人は寝ておらずに柳行李に毛布を被せ「看護婦の馬鹿」と書いてある。「Nさんは?」と尋ねれば、豚追い羊追いは優しい方で、軍服と白衣を脱ぎかえて柵を乗越えて街に遊びに行っている。斯んな工合で手のつけられない病院生活を始めました。其悪行が今の私の生命を繋いでいるとも言える訳です。シンガポール、マニラ、小倉、熊本と次々と病院を経て自宅に帰りましたが、どこでも哀れな目に遭いました。就中輸送船等は土蔵の中みたいな処であるし、どこの病院でもTB病棟だけは、自然の恩恵を少しでも受けられないように造ってあります。余り待遇がよろしくないので、何処でも軍医と口論した。拳銃と軍刀を医務室へ預けてないのは私一人でしたので、それが恐ろしかったのか地獄の一丁目にいた私の言い分は他の人達よりも通った。「注射なんかやらねえよ」点張である。面倒がって熊本を早日に退院させて貰って自宅へ帰えされた。「絶対医学に頼らない」と決心していた私は、遂にそれから三年目、子供の疫痢と将又家内の胃痛で、有難いメシヤ教の神力を知らされたのであります。
夥しい吐痰は腐敗した毒素でありましたろう。出た出た位の話ではなく、今も尚菌の住家がドンドン吐き出されています。 成程という工合に合理的に説かれた、明主様の御言葉が御一言御一言身に沁みて有難く感ぜられます。そうして今日数多くの結核患者にあたらして貰いましたが、どれもこれも暗黒の中に希望を失い、青菜に塩みたいに萎れています。神力という原子爆弾に驚いたり喜んだりで御座います。救はれし幸を思へば身を竭し心砕きて酬はでおかめやを其儘感激を持続して一家揃って熱心にお縋りした者は一〇〇パーセント救われましたし、一時的な者や全然疑って、初めから御浄霊を頂かない人は、多額の金銭を使い、一路地獄へとストレプトマイシンで可哀相なものであります。「お縋りすべきです。お縋りなさい」と結核恐怖学校の卒業生たる私は叫びたいのです。
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救われて行く日赤病院の患者達
広島県 T・N
私が御浄霊さして戴き九月中旬より一〇月上旬に教修を戴かれた日赤病院の患者さん達の事を御報告させて戴き御礼を述べさせて戴きます。最初友達のお母さんが胆石で入院されたのが日赤へ行く動機となりました。その友達の家はお稲荷信者ですので御道の話は現在は難しいのですが気の毒で時々御見舞に行って居りました。其中に同室の患者さん達とも親しくなり、銀行でいっしょに勤めていたSさん(後九月入信)が同室に入院して来られる等で皆さんとお友達のように話し合う様になりました。私もいろいろなお話から光明如来様を信仰させていただき病気は勿論、いろんな御蔭を戴いて居ることを御話しする様になり、内心で一人でも御救いさせて戴き度いと思って居りました。
或日ある患者が気胸をしたあとが苦しみ困っていましたので「すこし御浄霊させて頂きましょうか」と申したら、余程苦しかったと見え「すぐ御願い致します」と申されますので私も喜んで浄霊させて戴きました。三〇分位しましたらとても楽になりまして大変喜ばれました。
それを向いの部屋から見ていたYさん(後九月中旬入信、肺病)もしていただきたいとおっしゃり、それからYさんを一日おきに御浄霊させて頂きました。
その中にYさんと同室のPさんは医者からはっきり治る見込みがないと宣告され、悲観のどん底にある人でした。見るからにやせ細り目には力なく御飯が一度に一口か二口しか食べられず、痰は切れず夜は眠れずその上心臓の動悸が激しく正に死の一歩手前にある人のようでした。
「私は医者に見離されたのですからもう神様に御縋りするより道が御座いません。神様の仰言る通りに致します」と御縋りになりました。八月一六日に退院されてそれからお家の方へ行かせて戴きました。御浄霊一日目に「夜ぐっすり眠れました」と申され、本人は勿論私も譬え様もなく嬉しゅうございました。それから一日一日と目に見えて元気になられ毎日御浄霊に行くのが楽しみで御座いました。時に大浄化もありましたが御守護にて次第に元気になり一〇日目位から朝起きて御飯仕度もさせて戴ける様になり、絶対安静の死を宣告された方が二〇日目には配給品を取りに行かれるようになりました。その内日赤の患者さんの中から御浄霊戴きたいとおっしゃる人も段々ふえて参りました。皆Pさんの元気になられた姿に驚いておられました。その頃は日赤で四人、Pさんの宅で二人御浄霊させて戴いておりました。
ある日Pさんの御主人(大工)が足の骨に大工道具の何かを誤って打込まれ、足が立たず部屋をいざっていましたのを丁度その時来て戴いておりましたH先生が御浄霊されましたらすぐ立って歩ける様になられました。この奇蹟で御主人はびっくりなさって「病院では落付いて御浄霊も受けられないでしょうからよかったら私の家へ来て貰って下さい」とおっしゃって戴き、日赤の患者さん達も大変喜ばれました。九月上旬にPさんの宅でN先生に来て戴き座談会を開かせて戴きました。
この時にKさんは入院して一年半あまり病院から一歩も出た事なく一〇〇米と歩いたことの無い人でしたが一生懸命な気持で出席され、かえられた後も何んともなかった。「これで自信がつきました」と涙を流して喜ばれる姿など理屈からではなくどうにかして生きたい救われたいと求める人の真剣さに、私も何んとか御救いさせて戴き度いと一生懸命で御座いました。Kさんは下痢の御浄化を戴かれ食事も美味しくなりました。九人の御浄霊させて戴きました内の八人まで教修を受け退院されたので御座います。この様に私如きただの会員のしかも年若い者の手に依って日赤病院に呻吟せる患者さん達が救われて行って居ります。
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右の第一の例に就て言いたい事があるが、それは二年前に医師が診療して治らなかった患者が、健康体になったのを目の前に見て「君、幽霊かと思ったよ」とか「もう三回忌の筈じゃないか」などと曰って頻りに驚かれ、「一体どうして此様に丈夫になったのか」と訊くので「私はメシヤ教に入信、御浄霊を受けて治った」と一切を話しても、只ウーンと唸ったきりで、それ以上深くも訊かないで、済まして了ったという一事である。斯ういう例は常に聞くのであるが、若し真に良心があり医学の真目的を認識しているとすれば進んで研究の態度に出なければならない筈だが、今日迄そういう医師は一人もなかった。という不思議な事実である。之を考えてみると、全く科学的でないからという理由だけであろうが、そうとすれば結果の善悪はどうでもいい、只科学的でありさえすれば、絶対に信ずるというのであるから、恐るべき科学迷信に陥っている為というより外に言葉はないのである。
(結核信仰療法 昭和二十七年十二月一日)