序文

今度左の如き著書を発刊する予定であるが、前以てその序文をこの欄に載せたのである。

凡そ昔から幾多の宗教が現われ、夫々の使命を果しつつ、相当世の中に貢献して来た事は言う迄もないが、それとても公平にみて大した救いの力は現わさなかったことである。何よりも、これこそ絶対の信頼を払っても悔ないという程の価値ある宗教は殆どなかったからである。その証拠には若しそういう立派な宗教が生まれていたとしたら、それによって万教は帰一され、現在の如く八宗九宗数知れない程宗教はない筈である。遠慮なく言えば団栗の背くらべとしか思えないのである。

とはいうものの、この世の中に初めから宗教なるものがなかったとしたら、これは又大変な話で、人間世界は獣の世界となっていたかも知れないからである。兎に角宗教によって人間の我欲を制御し、堕落を食い止め、善人に希望を与え、社会の秩序を維持して来た功績は偉大なものであって、最大級の讃辞を呈してもいいと思うのである。併しながら人類の理想である天国極楽世界は未だ甚だ遠く、既成宗教の力では到底実現の可能性のないことは誰しも否めないであろう。これを一言にしていえば、既成宗教の功績は世の中の地獄化を食い止め得たとしても、それ以上の積極的力はないといってもよかろう。

そこでどうしても、既成宗教以上の力を有った超宗教的のものが生まれなければならないのは自明の理である。それが全人類の希望であると共に、その機運も近づきつつあることは吾々にも看取出来るのである。それに就いて言わねばならぬことは、右に対する主神の経綸であって、これは人間の眼には映らないが、霊的には着々として進捗しつつあるのである。これこそ近き将来万人の眼にも映るようになるのは勿論であって、この偉業の担当者として私は選ばれたのであり、その機関として創立されたのが我救世(メシヤ)教である。しかしこのような空前の大偉業なるが故に容易に信じられないであろうが、如何なる疑念も物的証拠を見せたなら、信じない訳にはゆかないのは言う迄もない。それこそ本教独特の奇蹟である。百の論議も一の事実に如かずで、我救世教の現わす素晴しい奇蹟がそれである。恐らく本教位奇蹟に富んだ宗教は、古往今来未だ嘗てないといっても過言ではあるまい。何よりも一度本教に触るれば直ちに判る筈である。

勿論これこそ神の力の偉大さを示す何よりの証拠である。凡そ今日迄の世の中を見ても神と名の附く神であれば、それ相応の利益を与えられた事績は史上明かな処であるが、それにも程度があって真に安心立命を得られる程の力ある宗教は一つもなかったといえよう。そうして神にも大小高下の差別があり、位の高い神程力もそれに相応する以上、本教に奇蹟が多い事と、それが素晴しい事は全く神格の高さを物語っているのである。故に信者の幸福の大きい事もそれに伴のう訳である。従って小なる奇蹟、凡なる奇蹟はザラにあり、一般人が驚く程の奇蹟でも本教信者は日常茶飯事としか思っていない。何しろ余りの奇蹟に割切れず、只唖然たるばかりのことが枚挙に遑ないのである。では奇蹟は何故現われるかについて説明してみると、現代人の頭脳は学問と伝統的観念で出来上っており、その中でも特に肝腎な医学に於ての大きな迷信は気がつかず、絶対の信頼を払い常識にまでなっているのである。これに対し本教浄霊法によれば、大病院や博士から絶対不治として見放され死を待つばかりの病人が、忽ちにして起死回生的成果を挙げる事実に直面しては、只唖然として頭を下げざるを得ないのである。又今一つの事実は本教出版物には医学の盲点を徹底的に暴露し、マイナス的存在としているに拘わらず、それが十数年に及んだ今日と雖も、未だ一人の専門家の反駁も詰問も出ないので、吾々は不可解至極と思うのである。

以上にみても分る如く、本教の奇蹟は到底理屈のつけようがなく、如何に疑い深い人でも事実の前には兜を脱がざるを得ないのである。併し本当をいえばこの世の中に奇蹟のないのが真理であって、理屈のつかないのは理屈が間違っているからである。何しろ欠点の多い人間の智慧や学問で作られた理屈であってみれば、それも致し方ないのである。従って将来学問が大いに進歩したその時こそは、奇蹟の言葉はなくなる筈である。そうして本教の奇蹟は悉く神霊の力によるものであるから、無神論者には尚更分りよう訳がない。そこで理屈で分らないものは何も彼も奇蹟の一言で片附けてしもうのである。以上の意味によって現在吾々の生活も仕事も、奇蹟に次ぐ奇蹟によって面白い程スムースにゆく。時には奇蹟を予定する事さえある位で、そういう時は偶には外れる場合もあるが、後になって奇蹟が延びた為、却って奇蹟は大きくなる事もよくあるのである。そのような訳で万事予想以上に巧く運んでゆくと共に、危いことも避けられ、面倒なことも奇蹟で解決されるという真の安心立命の境地にあるので、全く吾々は奇蹟の生活を楽しんでいるのである。

理論はこの位にしておいて、今迄に本教に於ける無数の奇蹟の記録は埋めておくのは惜しい気がするので、これを一冊に纏めてこの著としたのであるから、読者はこの生ける事実を充分熟読玩味すれば幸福の第一歩に入ったのである。

(栄光百九十六号 昭和二十八年二月十八日)