太陽の救い

現在識者とされている人達程、必ずと言いたい程新宗教とさえいえば、最初から色眼鏡で見る癖がある。どうせ近頃の出来星宗教であるから、時世に便乗して巧い教理をデッチ上げ、愚夫愚婦を迷わせて懐を肥し、教祖様などと納まりかえっているに違いないと決めているので、仮令病気に罹っても医者にも掛からせずおまけに血の汗絞って稼いだ金まで捲き上げられて有難がっているのであるから、困った世の中だ位に思っているらしい。成程それが事実としたら其通りで、吾々宗教人と雖も共鳴に憚らないのは勿論である。

併しそれも満更間違ってはいないとも思うというのは新宗教中二三を除いては感心出来ないものも相当あるからである。其例として世間よくある大きな声で経文を読み鐘や太鼓、拍子木等を叩き、近所迷惑などお構いなしでいゝ気持になっているのを見ると、一種の騒音罪悪であろう。

又衆人環視の中で、多勢の信徒が変な歌を唄い乍ら、妙な手附で何の会釈もなく舞踊っており、宛然(サナガラ)夢心地の陶酔境である。之を見せつけられて余りいゝ気持のしないのは吾々のみではあるまい。としたら之等も社会的に見てどうかと思うのである。そうかと思うと信仰に熱心な余り一人よがりになって了い、他の宗教や無信仰の人達を軽蔑するばかりか、世間並の交際さえ嫌う人も往々見受けるが、極端になると神憑りを喜び、気狂い染みた人間を作る信仰さえあるので、之等もプラスよりマイナスの方が多いと見ねばなるまい。又罪のないのもある。髪を伸ばし、異様な服装を着け、生神様然と納まり返っている自称教祖などもよくあるが、之等は全く嫌味タップリで、よく斯んな生神様を信仰する人もあるかと思うと、世の中は広いものである。又昔から或種の信仰には附物の難行苦行であって、寒中の水垢離、深山へ篭っての断食や滝を浴びるなど夢中になっているが、成程御当人は大満足であろうが、吾吾普通人にはサッパリ其了見が分らないので、寧ろ可哀想に思う位である。以上ザットかいてみたが、要するに世間離れのした行り方を宗教本来のものと思っている此迷信も困りものである。之等を見るにつけ、私は宗教人であり乍ら苦行をいゝとする宗教など、実に嫌なものであると思い、常に人にも曰っている。以上の如く今日低級信仰が巾っているので、最初かいた如く有識者ならず共、軽侮の念を起さざるを得ないのは当然である。

処が手前味噌ではないが、我メシヤ教は右のような信仰とは全然異っている。先ず第一常識を重んずる事、生活も行動も一般人として少しも変らない事、如何なる人とでも親和を旨とし、円満を欠かない事等をモットーとしているので、此真相が分ったなら如何なる人でも安心して、本教の信者とならないまでも接近したくなるであろう。処が右の真相を知らない為、漫然と客観して前記のような常識外れの信仰と同一視せられるので、実に迷惑である。従って本教の発展を妨害するものは無神論者でも科学迷信者でもない。寧ろ右の如き好ましからざる新宗教といってもよかろう。而も意識的妨害ではないから、反って始末が悪い位である。此事は考える迄もなく日本特有の宗教界のあり方であろう。というのは欧米に於てはどの国も大体キリスト教一本である事と、文化の発達が日本より早いので、宗教の見方にしても比較的公平であり、合理性に富んでいるから洵にいゝが日本は仏教あり、神道あり、キリスト教あり、而もそれ等が幾派にも分れているので、実に正邪混淆雑然としているから、其点実に行り難いのである。

だがいつもいう如く、我メシヤ教は宗教ではなく超宗教であって、歴史肇って以来未だ嘗てない救いの業であるから、何も彼も異っている。何人も本教の型破り的行り方にみても分る如く、在来の宗教の頭では容易に呑み込めないのも無理はないが、併し一旦分りかけたが最後、今迄求めていたものは之だなと知り、心の底から歓喜が湧いて来るのは例外はないのである。何よりも本教の発展振りをみれば分る如く、僅か数年にして之程発展した事実である。それに就て注意したいのは、最近数年間に素晴しく発展した二三の新宗教もあるが、それは本教とは根本的に異っている。というのはそれらの宗教は既成宗教を土台とし、其団体の多数の信者を糾合(キュウゴウ)して出来たのである。それに引き換え本教は一から十まで独創的である以上、此点充分認識されたいのである。

そうして前記の如き非常識極まる宗教は、云う迄もなく其根本が小乗信仰であるから窮屈で自由がない。併し自由といえば宗教とは縁遠いように一般は思っているが、此点ヤハリ現界と同様、民主的自由主義でなければ、今後に於ける一般大衆を指導する事は出来ないであろう。之を分り易くいえば斯うである。今日迄の宗教は小乗本位であるから、世界と同様各国夫々の色が異うが如く、宗教もそうなっている。従って其説く処も自家本位で一般性がないから、救いの範囲も狭いのは当然である。而も小乗信仰は厳しい戒律があるので、それに縛られて苦しむのを行としている。之等は神の愛を拒否する事になり、気の毒なものである。之を私は信仰地獄といっている。処が本教は反対で、殆んど戒律がないから極めて自由であり、人生を楽しむ事を神の恵みとしているから、之こそ天国的信仰といえよう。以上の如く大乗的本教には宗教、哲学、政治、経済、教育、芸術、医学等々、人間に必要なものは悉く包含されており、恰度太陽が凡ゆる色をコントロールして白一色である如く、本教は昼の宗教であり、太陽の救いである。

(栄光百八十三号 昭和二十七年十一月十九日)