新世界の誕生

我メシヤ教は宗教ではなく、宗教はメシヤ教の一部であるのは、常に私の唱えている処であるが、では一体どういう名称ならピッタリするかというと、標題の如く新世界建設事業という名が合っていると思う。然し之では何だか土建屋の看板みたいだから、今の処メシヤ教と呼ぶより仕方があるまい。そうして先づ本教の企画であるが、それは現在の唯物科学と唯心科学を並行させ、文化の進歩発展を図る事である。御承知の如く今迄は科学文化が非常な速度で走りつつあり、現在も走り続けているに対し、唯心文化である宗教の方は、兎に対する亀である。数千数百年以前文化がまだ幼稚な時代に生れた儘で、殆んど進歩はなかった為、遂に千里の差を生じて了ったのであろう。

其結果として、今日科学のみがクローズアップされ、霊的の方は眼に入らない迄に遠くなって了ったので、遂に霊を無視し、科学のみを文化の全体と思い込み、人間は科学の王者の前に跪き、奴隷に甘んじているので、之が現在の世界の姿である。何よりも貴重なる人間の生命でさえ安心して、科学の掌中に委ねているではないか。処が事実科学では生命の安全は保証出来ないに拘わらず、それに気が付かず、相変らず盲目的に信頼しているのが現代人の考え方である。そこで神は其迷盲を哀れみ給い、私をして現在それを教えているのである。即ち生命は物質には属しない事、生命は眼に見えないだけで、厳然たる存在であって、神の支配下にあるものである事を事実を以て示されているのである。事実とは唯物医学で駄目と断定された者が、ドシドシ神力によって治されている。之が何よりの証拠である。

之に就て考えなければならない事は、それでは何故今日迄生命に関する程の重大問題が、不明の儘であったかという疑問であるが、之も無理はない。そこで此事を想像してみると、科学文化を或程度まで進歩させる必要上そうされたのであって、之も神の経綸で、過渡期に於ける一時的現象である。それに対して神は其行き過ぎを訂正すると共に、唯物科学の分野と唯心科学の分野とをハッキリさせ給うので、之によって唯物唯心の科学は、歩調を揃えて進歩し発展し、茲に真の文明世界が生れるのである。一言にしていえば現在の旧世界は、茲に終りを告げ、新しき世界が造られるのであるから、私の仕事は其産婆役といってもいい訳である。

(栄光百六十七号 昭和二十七年七月三十日)