病原としての細菌

近代医学に於ては、病原の殆んどは細菌とされている。従って細菌の伝染を防ぎさえすれば、病に罹らないとする建前になっているが、一体細菌というものは、如何なるものであるか、之が徹底的に究明されなければならない。即ち細菌とは何の理由によって、何処から発生されたものであるか、先づ此根本が判らない限り、真の医学は確立する筈はないのである。いくら微小な細菌であっても、突如として偶発的に湧いたものではない。湧く理由があり、発生源があるべきである。処が医学に於ては、細菌の伝染経路を調べるだけで、その先の根本を判ろうとしない。つまり其処迄には達していないからで、現在はその中途迄判っただけでしかない。只菌の伝染によって病気が発生するというだけでは、謂わば一種の結果論にすぎない。単なる顕微鏡の発達によって微小なものを捉え、それが病原と判ったので、有頂天になって了い、それを基本として研究を進めて来たのが、現在の黴菌医学であってみれば、吾々からみる時甚だ浅薄極まるものと言えよう。どうしても黴菌発生の根源に迄突進んで、其実体を把握しなければならないのは勿論である。然し学者によっては、そこに気が付かない訳はなかろうが、それを知るには肝腎な方法が未だ発見されていないから、止むを得ないのである。

そうして顕微鏡の進歩も、之以上は容易な業ではないのみか、実は之から先の領域は、機械での測定は不可能である。何となれば無に等しい世界であるからで、私は之を名付けて無機質界という。然し真の無ではない事は学者も認めてをり、何かしら確かに在るには違いないとは想像しているが、其実体が判らない。只僅かに掴み得たものが彼のヴィールスである。としたら黴菌医学はまだ揺籃時代の域を脱していないと言えよう。尤も之にも理由がある。というのは右の無機質界は、前述の如く科学の分野ではなく、言わば科学と宗教との中間帯であるからで、実は此中間帯こそ黴菌発生の根源地であって、空気よりもずっと稀薄な元素の世界である。それを之から解明してみよう。

右の如く、病原の本体である黴菌の発生源が無機質界に在るとしたら、現在の如き唯物医学では、到底病理の解明などは、木によって魚を求むるようなものである。としたら今後如何に研究を続けても、百年河清を待つに等しい無益な努力でしかあるまい。以上のやうに、私は思い切って医学の盲点を指摘したが、勿論人類救済の目的以外他意はないので、若し此発見がなかったとしたら、人類の未来は逆睹し難いものがあろう。此意味に於て私の説を肯定し、医学が再出発をするとしたら、病なき世界の実現は決して難事ではないのである。故によしんば此説が全世界の学者、智識人から反対され、非難せられ、抹殺されるかも知れないが私は敢然として、真理の大旆を翳して進むのである。とはいうものの学者の中には、私の説に驚嘆し、瞠目し、共鳴するものも必ずあるには相違ない。何となれば若し百年前に空飛ぶ飛行機、千里の先の話を聞くラヂオ、一瞬にして何百万の人間を屠(ホフ)るという原子爆弾の話をしたとしても、誇大妄想狂として、一人の耳を傾ける者もなかったであろう。

茲に、先覚者の悩みがある。然し私の説は真理であり、而も事は人間生命の問題である以上、如何なる偉大なる発明発見と雖も、之に比すべきものはあるまい。としたら全世界の医学者に訴えたいのは、私の説を既成学問に捉われる事なく、白紙となってベルグソンの所謂直観の眼を以て見られん事である。

(結核の革命的療法 昭和二十六年八月十五日)