此標題は少し厳しすぎるようだが、事実であるからやむを得ないのである。というのは、唯物主義即無神主義こそ、吾々からみれば最も危険な思想であるといっていい。ブチまけていえば、若し此世の中に本当に神がないとしたら、私なども随分人に知れないように、巧く誤魔化して金を儲け、為たい放題の事をし、贅沢三昧に暮すと共に、相当出世も出来たであろうが、何しろ神様の実在を知った以上、どうしてもそんな事は出来ない。出来るだけ真直な道を歩いて、人の幸福を念願する人間にならなければならない。そうでないと幸福に決してならないから、生甲斐ある生涯を送る事は出来ない。
之は理屈でも何でもない。昔から歴史を見ても分る通り、悪で一時はどんなに栄えても長くは続かないで、結局は滅びて了う例は余りにも多すぎる。そこに気が付きそうなものだが、仲々気の付かないとみえて、相変らず社会は犯罪で埋っている。強盗、詐欺、殺人などの兇悪犯罪をはじめ、地位ある人の汚職事件、市井の巷などでの人騒がせや、数知れない程の中小犯罪なども、其悉くは無神思想から生れたものである。従って此無神思想こそ、犯罪を生む母体であるといってもよかろう。
従って世の中から犯罪を除くとしたら、何よりも此無神思想を撲滅する以外に方法のない事は、余りにも明かである。処が今日識者も当局も、教育家も、反対に有神思想を迷信と見ている錯覚で、相変らず法の取締りや、教育、御説教等に頼って効果を挙げようとしているが、之では何程熱心に努力しても、効果を挙る筈がないのは当然である。何よりも日々の新聞の三面記事を見ればよくそれを物語っている。
以上に依てみても、社会を清浄にするには、有神思想を大いに鼓吹するより外に仕方がないが、情ない哉現在の日本は、智識階級程無神思想者が多い実状で、而も無神思想がインテリやジャーナリストの資格とさえ思われ、無神論を大いに唱える人程進歩的とされているのである。という訳だから之が一転して、無神論者は古い人間に見られ有神論者が時代の尖端を行く智識人と見えるようにならなくては、住みよい、明朗な社会とはならないのである。
(栄光百五十五号 昭和二十七年五月七日)