本紙に毎号満載している御蔭話を読んだ人はよく分るであろうが、危難に遭遇して危うき一命を救われたり、暗い家庭が明るくなったり、収入が増え、物事が順調にゆくようになったとか、凡ゆる面に神様の御守護を戴き、一歩々々天国的家庭になってゆくという事は、全くメシヤ教の名の如く、世を救いつつある事実は今更言う迄もないが、色々の御蔭中最も重要な病気に就ての感じたままを卒直にかいてみるが、それは一人の例外もない程最初は医療を信じ、飽迄医師に縋っているが、予期に反し漸次悪化する事である。それが実に明かに何の病気にも表われており、一般人が之を読んだら、余りの意外に驚くであろう。処が何かの事情で医療を廃めると、意外にも幾分づつでも好転する事実である。其反対に、医師が頗る熱心に彼の手此手の最新の療法を施せば施す程、益々悪化するばかりか、思いもつかないような余病さえ一つ一つ増えてゆき、終いには五つも六つもの病気で、二進も三進もゆかなくなり、医師も手の施しようがなく、匙を擲(ナ)げて了うという訳である。
処が大抵は初診の際「貴方の病気は軽いから直に治る」とか「何週間も経てば必ず快くなる」などと、大いに確信があるように云われるので、患者は絶対信じて了うが、結果は逆になってゆくので、茲に迷いを生じ、アチラの病院、コチラの医師というように、散々治療を受けるが仲々治らない。反って悪化するばかりなので、茲に希望を失い、絶望の極自殺を考える人なども尠くないのである。而もそれまでには多額の療養費を使い、経済的にも行き詰りとなるので、之も絶望に拍車を掛ける訳である。というような経路を常に読んでいるが、何しろ作り事ではなく、ありの儘の其時の心境が浮び出ている事とて、読む度に私は幾度となく、目頭が熱くなるのをどうする事も出来ないのである。
以上のように医学というものは治病能力がない処か、反って悪化させる方法でしかない事は余りにも明かで、此事実に対し医師諸君は気が付かなければならないと思うが、其様な気配すらない。というのは成程医療を加えると一時は確かに快くなるから、それで治るものと即断するのであるが、事実は決して長くは続かない。必ず反動が起って再発し、寧ろ初めより悪化の度を加えるに拘わらず、それが分らないというのは、どう考えても不可思議である。全く根強い迷信に罹っているとしか思えないのである。此理は近来続出の結核新薬に就ても言える。衆知の通り次々生れては消え、消えては生れる新薬が、最初は必ずヤンヤと云われるが、日の経つに従い効果がないとか、あっても一方によければ、一方に悪いというように欠点が現われてくる。というように年中同一の事を繰返しているのが現実であって、之も不思議の一つと言えるが、実は不思議でも何でもない、当り前の話である。それは最初の効き目というのは治る効き目ではない。苦痛を緩和するだけの効き目であるばかりで、而も浄化停止の為の薬毒が加わるから、其反対が起る。即ち再発である。そこで其薬に疑いが起って駄目という事になる。此事実だけに見ても薬の効果は一時的で、根治は出来ない事が分ると共に、新薬続出の原因も分るであろう。
としたら斯んな簡単なハッキリした理屈が分らない現代医学者の頭脳こそ、寧ろ研究問題ではあるまいか。私は決して医学を悪く言いたくはないが、此真理を目醒めさせなければ、医学の迷蒙も患者の不幸も見ては居れないのである。事実医師は病を治してやりたいと思い、患者は医学を絶対信じて、生命迄も委せているのであるが、それが実は病を悪化させ、生命迄も零にするのであるから、無智処の騒ぎではない。茲で特に考えてみて貰いたいのは、此様な悲惨事に目醒められず、苦しみ悩みつつある人類に対し、神が在るとすれば、神の大愛は何時迄も黙止され給う筈はない。昔から唱える如く、人間は神の赤子であるとすれば、救いの御手を差し伸べられるのは当然である。とはいうものの一切は時期である。之も神は世界の経綸上時期が来なければどうにもならないのも、私は知らされている。幸いなる哉、愈々其時期が来たので私という者を選ばれ、其大任を委せ給うたのである。従って私は病理の本源を啓示されたと共に、治病の力も与えられたのである。そうして此文は随分思い切って医学の欠陥を暴露したが、右の理由が分ったなら何等疑う処はあるまい。
(栄光百五十一号 昭和二十七年四月九日)