体内の入浴

私は現代医学の誤謬を常にかいているが、何しろ今迄長い間病気は医者と薬という事に決っているのであるから、吾々の言う理屈は成程と分っていても、思い切って実行する事が出来ないのが、大抵な人の想念である。だからそういう人達の為に、出来るだけ分り易く、茲にかいてみようと思うのである。

それに就て一番判り易い病気としては、何といっても風邪であろう。そうして先づ風邪を引くやイキナリ熱が出て、咳や痰、嚔(クシャミ)、水ッ洟(パナ)、頭痛、節々の痛み等の苦しみが発るので、早速お医者に診て貰う。処が之に問題がある。誰しも風邪位と思っている半面、ウッカリすると、どんな事になるか分らない、或は大病の始まりかも知れないという心配が頭を持ち上げてくる。そこでお医者の言う通りにして治まるのを待っている。又人によってはアスピリンや葛根湯(カッコントウ)を煎じて服むとか、御手製の玉子酒、蜜柑の黒焼などを呑んで、ウント蒲団を被り、真赤になって汗を出す行り方である。又懐の温かい臆病な人は、そんな姑息な方法は出来ないとして、手遅れになっては大変だ、それこそ取返しがつかないと、普段から信用しているお医者に馳けつける。そこで色々お医者に訊くが、何しろ風邪の原因すら分っていない医学の事だから、ハッキリ説明が出来ないので安心は出来ない。それも其筈、お医者自身でさえ肚の中では、或は肺炎になるかも知れないという懸念もあるからで、そこで先づ安静第一と、精々御大事にしなさい位の御座なり的言葉なので、心細い事夥しい。といって外にどうしようもないから、ビクビクもので、一日中体温計と首ッ引であるのを、吾々から見れば実に滑稽至極である。

処がいつも言う通り、風邪位結構なものはないので、体中の何処かしらに溜っている毒の掃除であるからで、即ち熱の為に溶けた痰や水ッ洟、汗などが出るだけ出れば治って了い、後はサッパリして健康は増すからである。つまりロハで体内の掃除が出来るのだから、斯んな有難い話はないではないか。之を例えてみれば、入浴は外部の清潔法で、風邪は内部の清潔法と思えばいい。つまり皮膚に溜った垢を落すのと同様体内に溜った垢を落すのである。だから痰や鼻汁、汗も垢である。勿論皮膚は人間の手で洗えるからいいが、腹の中はそうはゆかないが、自然は有難いもので、風邪という方法で洗い落されるのだから、何と造物主という神様が巧く造られたものではないか、としたら実に風邪様々である。だから出来るだけ風邪を引くようにすればいいので、之が先づ一番の健康法である。つまり神様の造った健康法である。従って此理屈が分っただけでも、心配は半分以上減って了うのは当然で、反って手当などせず放っておくに限るので、それで迚(トテ)も順調に治るから、今度風邪を引いたら試してみればよく分る。而も体内が清まる以上、其後は段々風邪を引かなくなる。処が斯んな簡単な理屈が今日迄分らなかったという事は実に不思議で、人間位愚かなものはないと私は思っている。という訳で風邪を無暗に恐れ、引いたが最後余計な金を使い、仕事もせず散々苦しんだ揚句、結核などになるのだから、憐れなる者よ汝の名は人間也と言いたい位である。そればかりではない。茲に問題なのは薬である。前記の如く体内の清潔法を逆解して停めようとするのが医学であり、其為用いるのが薬と称する毒物である。凡そ世の中に本当の薬というものは一つもない。強いていえば先づ米の飯であろう。之は人間が生きてる以上、一日も欠かす事が出来ないからである。だから今日薬といって有難がっているものは悉く毒であって、毒の力で治るのを邪魔するのだから、之程間違った話はあるまい。ではどうしてそんなに間違ったかというと、清潔作用の苦しみが薬で一時楽になるからそれを治るものと錯覚して了ったからである。とすれば薬というものは全く禁断の木の実であろう。

処がまだ大変な事がある。それは薬毒は体内へ入ると大部分は残って了い、何年、何十年経っても外へ出ないで、体内各局所に固まって了うのである。それに清潔作用が起る。それが風邪であるから、其儘放ってをけば必ず治るものを、態々薬で拗らし余病を作ったり、悪化さしたりして、命迄もフイにするのだから、呆れて物が言えないのである。斯うみてくると病気の因は全く薬毒であるから、人間は薬を廃め、出来るだけ風邪を引くようにすれば、年中無病息災となり、長生きする事請合である。

此様な素晴しい人類の誤りを私は発見し、而も浄霊という薬毒排除法迄教えるのであるから、私の事業たるや、如何に大きな救いであるかが分るであろう。私の唱える病貧争絶無の地上天国を造るなどと、偉そうに曰うのも、満更法螺でない事が肯かれるであろう。

(栄光百四十七号 昭和二十七年三月十二日)