社会事業と宗教事業

今日世間を見ると、社会事業と宗教事業とを混同している事に気が付かないようである。尤も之には理由があるので、それを今かいてみるが、一例を挙げれば現在キリスト教始め、近頃は日本の既成宗教もそうだが、相当大を成しているものは何れも病院を経営しているが、之は全く信仰では病気が治らないからで致し方ないといえば言えるが実は本当ではないと言えよう。もし信仰の方が医学よりも病気がよく治るとしたら、何を好んで病院など造る必要があるであろうかは分り切った話である。

としたら忌憚なくいえば、信仰よりも医学の方が勝っている事を表白している訳で、宗教よりも科学の方が上になる事になる。

としたら今迄拝んでいた其神なり仏なりを片附けて了い、其代りに神棚へ医師の写真を飾って朝晩拝んだ方がいい事になろう。何しろお医者さんは命の親だからである。

処が本教に限って如何に膨大となっても、病院などは決して作らない事を明言する。此言葉は現代人が聞いたら、大いに吃驚するであろうが、言う迄もなく本教の治病力は医学よりも断然上であるからで、私が医学革命などと常に口にするのも、そういう理由があるからである。

今一つ言いたい事は現在孤児院、養老院、救貧事業等色々あるが、之等も私に言わせれば、膏薬張り慈善事業以外の何物でもないのである。何故なればそういう色々な不幸な人が出来るという事は、社会の何処かに根本原因があるからで、其原因が分って、それにメスを入れるのが本当ではあるまいかと思うのである。処が遺憾乍らそれが分っていないので、どうしようもなく相変らず対症的間に合せ方法を採っているのである。処が本教はそれら一切の不幸の原因が分っているから、着々救いの手を拡げているので、将来地上天国が造られるので、それが本教の使命でもあるから、一時的流れを堰止めるような愚劣な手段はやらないのである。尤も其必要もないからである。

右の事実を知らない人は、何故本教が社会事業に冷淡であるかを訊く事があるから茲に弁明する次第である。

(栄光百四十六号 昭和二十七年三月五日)