神を見せる宗教

よく世間信仰のない人に信仰を勧める場合彼等は此世の中に神仏等あって堪るもんか、若しあるんなら、是非見せて貰いたいといって、サモサモ自分は文化的人間の様に思って迷信は真っ平御免だとテンデ相手にならないのが、一般人の態度であろう。それが最も甚だしいのが、所謂インテリ階級の人達である。といっても、之等の人を決して非難する事は出来ない。全くそれに違いないからである。というのは世間多くの信仰を見ると余りにも非科学的で、迷信臭くない信仰は、洵に寥々たる有様であるからである。従って多くの信仰は、神仏の実在をハッキリ見せる事が出来ず、あるような無いような、甚だ頼りないのである。としたら信仰に無関心な人の多いのも無理からぬ事と思うのである。

処が我救世教に至っては、神の実在をハッキリ誰の眼にも見せている。一度本教へ接するや必ず神の実在を知って吃驚するのである。其何よりの證拠は、本教の無数に上る御蔭話である。処が遺憾な事には、之を読んでも信者から聞いても、其儘呑込める人は洵に少ないのが実状である。というのも全く前述の如き、レベルの低い信仰によって出来上った色眼鏡を透して見るからで、之も一面無理はないが、本教などにとっては残念至極である。それに就て私がいつも言う如く、本教は宗教ではない、超宗教であり、大いなる救いの業である。

そうして入信者がよく言われる事は、最初本教の刊行物などを見た場合余りに今迄の宗教の教えや、科学の理論とは懸け離れているので、只不思議と思うばかりで、到底信ずる気にはなれないが併し物は試しと疑い々々浄霊を受けるが、只手を翳すだけなので唖然として了い、之程進んだ現代医学で治らないものが、斯んな他愛ない行り方で治る訳はないと思い、止めて了おうかと決心していると、翌日になるや何だか気持がよく、軽くなったような気がするので不思議で堪らないが、マー瞞されたと思って、今少し辛抱してみようと委していると、メキメキ快くなって了うので、喜ぶよりか愈々分らなくなって了う。というのが体験者の口を揃えて言う処である。

以上のように本教は、余りに類例のない現当利益が顕著なので、それらの話を聞く智性人などはそれだから迷信だなどと飛んでもない逆な事を言うのである。之も大いに邪魔になるのであるが、中には頭の確かな人もあって事実は飽く迄事実だからと素直に入信し、幸福者となる人も尠くないのである。そんな訳で本教が何物にも追随を許さない奇蹟を現わし、手に取るように神の実在をも見せる以上、如何に頑迷な人でも、科学文化に心酔している人でも、結局兜を脱ぐのである。

(栄光百三十八号 昭和二十七年一月九日)